家紋 塩竈神社・志波彦神社

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留守氏
江戸時代は伊達氏が任ず


 塩竈神社の境内には別宮として、志波彦神社が祀られている。
 志波彦神社は、もと宮城郡岩切村の冠川の畔に鎮座された延喜式内名神大社である。その創建については明かではないが、朝廷の尊信がことのほか厚い神社であった。明治四年国幣中社に治定されたが、境内も狭く満足な祭事を行うことも困難であったことから、明治天皇の思し召しによって同七年塩竈神社別宮に遷祀された。志波彦神は、塩竈の神に協力した神と伝えられ、国土開発、殖産振興よりわけ農耕守護の神として信仰されている。
 一方、塩竈神社は、塩土郎老翁神・武甕槌神・経津主神を祀り、その創建は古く、明かではないが、初めて史書に見えるのは『弘仁式』(九世紀はじめ)で、陸奥国正税六十万三千束のなかから一万束の祭祀料を授かっていたことが記され、同様の記述が『延喜式』にも見られる。
 奈良時代、国府と鎮守府を兼ねた多賀城が塩竈神社の西南の小高い丘に置かれ、東北経営の根拠地として政治・経済・文化等の中心地となり、その精神的支えとなって信仰されたものと考えられる。  塩竈神社は、土着の信仰と「東北鎮護」の社として、当時の朝廷にとっても重要な社として国家的な信仰をうけた 神社であった。

武士の時代

 その後、奥州藤原氏を経て、源頼朝は文治六年(1190)伊沢家景を陸奥国留守職に任じた。それ以降伊沢氏は留守姓を名乗り、この地を治め、塩竈神社の大神主として同社に奉幣し祭事を司った。留守氏は塩竈神社の神事を司りながら武士としての側面も有し、室町時代に至って持家のとき、伊達氏から郡宗を迎えて嗣とし、以後、伊達氏との結びつきを強くした。
 戦国時代、伊達晴宗の子政景が養子となって留守氏を相続した。政景は伊達政宗麾下の武将としても名高く、政宗の奥羽制覇に尽くしたことはよく知られているところである。
 近世に入り、伊達政宗は慶長十二年(1607)社殿を造営したのをはじめ、以後歴代の伊達藩主は大神主として神社を治め、社殿の造営および修復、社領、太刀、神馬等多くの寄進を行い、自ら社参して衣服を改め神前に祈願した。
【桜に三つ柏】



■留守氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]