家紋 寒川神社

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現在の宮司は瀧本氏とのこと


 寒川神社の祭神については、現在、寒川比古命・寒川比女命ということになっているが、ほかに、 相模国を開拓した神であるとか、応神天皇であるとかいう説もあり、詳らかではない。

謎の寒川大神

 『相模の古社(菱田勇・梅田義彦両氏著)』には、寒川神社をはじめ、相模国の延喜式の古社十三座に関する研究が修められているが、同書には、寒川神社の祭神が不明なのは、同社が何度も火災にあって、記録がすべて焼失したからであるという。
 そのため、平安時代には寒川神が祭神であるといわれたが、近世になると、八幡神であるとされ、また、素戔鳴尊や大己貴命であるとする説もあった。現在の祭神に定められたのは明治になってからで、明治七年、教部省が『特選神名帳』を出して、寒川神社の末社牟禰神社の祭神が寒川比古命と比女命であり、この神社の祭神と同じであろうと考え、翌々九年に、そのように決定されたものである。
 こうして見てくると、『相模の古社』にもあるとおり。「上代の人たちは、寒川大神がいかなる人物であるかなどは問う心はなかったのであろう」とも思われる。
 いずれにせよ、『総国風土記』によると、約千五百年前の雄略天皇の御代に幣帛を奉納されたということであるから、創建はきわめて古く、土地の人ばかりではなく、朝廷の信仰も篤かったことがしのばれる。そのほか、桓武天皇の延暦七年(788)など、天皇が奉幣され、勅祭が行われたことはしばしばあった。仁明天皇の承和十三年(846)以来たびたび位を授けられ、醍醐天皇の時定められた『延喜式』では、相模国でただ一つの国幣大社とされ、名神大社に列せられた。
 その後、武士の世になってからも、源頼朝、北条義時、北条重時らが参詣して宝物を納めているし、戦国時代の小田原北条氏も、代々、社殿の修築や社領の寄進などに努めている。また、甲斐国の武田信玄も篤く崇敬していたと伝えられ、近在には、武田氏の滅亡後、その家臣が流れてきて土着したという家系がかなりある。  江戸時代に入ってからも、徳川氏が社殿を再建し、社領を贈っている。
 『東鑑』には、寒川神社を相模国の一の宮、佐河大明神と記し、また昔は、鎌倉幕府の武将で源義経と仲が悪かったといわれる梶原景時がこの辺り一帯を領有していたと書いてあるが、景時が失脚して西国に落ちのびようとした時、寒川神社に立て篭ろうとしたこともあったらしい。
 寒川神社は千五百年以上も昔から尊崇され、近世においても社領百石を有した相模国一の宮で、往昔には国府祭といって、中郡国府の神揃山の祭場へ御輿が渡り、二の宮以下五社が揃う盛大な祭が催された。
 なお、寒川町岡田の安楽寺の後ろに応神塚と称される二十間四方に及ぶ大きな古墳が存在する。これは応神天皇が祭神であるとの説と結び付いたものであろうが、安楽寺が寒川神社の別当であったと伝えられるところから、このような説が生まれたとも考えられる。
【なめくじ巴(ふつうの三つ巴とするものもある)】


   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]