家紋 鹿島神宮

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中臣鹿島氏


 鹿島神宮は、神武天皇紀元元年の創立と伝えられ、武甕槌神を祀っている。武甕槌神は神代の昔、天照大神の命により国土を平定し、神武天皇東征の折に神剣「フツノミタマノツルギ」を天皇に献じて東征を助けた。天皇は神恩に感謝して、即位の年に使を鹿島に遣わして武甕槌神を祀られたものと伝える。
 第十代崇神天皇のとき、大阪山に鹿島の大神が現われ、中臣神聞勝命に神託があり、天皇は大刀、ヤタノ鏡、 許呂等の神宝類を献じた。そして、この神宝を奉持した神聞勝命が鹿島中臣氏の祖となった。

古代より朝野の崇敬を集める

 大化五年(649)鹿島神郡が設けられ、天智天皇九年には初めて使を遣わして神宮を造営した。以来、国家的な祭祀が鎌倉時代まで続くのである。
 『延喜式』神名帳には、常陸国の項に「鹿島神宮(名神大。月次・新嘗)」とあって、名神大社であって、月次・新嘗の両祭に預かる待遇であるが、この神名帳によれば、伊勢の神宮を除いては、鹿島と香取のみを称しているので、いかに古い時代から朝野の尊崇が厚かったかを知ることができる。
 藤原氏の藤原鎌足は鹿島誕生説が『大鏡』などで説かれているように、鹿島神宮を氏神として仰ぎ、藤原不比等は神護景雲二年(768)に分霊を奈良に迎えて春日社を造立した。鹿島神宮最大の分社といえよう。また、東北の塩竈神社も鹿島神宮と同じく武甕槌神を祀る神社として知られている。
 貞観八年(866)鹿島神宮宮司の云うこととして、大神苗裔神三十八社が陸奥国にあると『三代実録』にある。現在分社としては茨城県内に約五百社、関東近県で約九百社と推定され、鹿島より扇状に東北へ向かって集中している。これは、蝦夷平定に鹿島の神威が伝播されたことを示している。
 鎌倉時代には、源頼朝が鹿島神宮を深く崇敬し、神領の寄進をたびたび行い、また鹿島の神託に注目した。鹿島神宮では古代より卜部が亀卜を行って、その結果を朝廷、幕府、一般に知らせており、「鹿島事触れ」として著名なものである。『吾妻鏡』に頼朝が神託を聞き、庭上に降りて鹿島の神を遥拝したという記録があるが、これは「事触れ」によるものである。
 江戸幕府創設者の徳川家康は、源頼朝にならって鹿島神宮を崇敬し、武運長久を祈願し、神領二千石を寄せ、 者殿を造営した。以後、代々の徳川将軍も神領を安堵し二千石の朱印状を寄せたのである。 日本三大楼門の一つとされる楼門は、水戸徳川初代藩主頼房が寛永十一年(1634)に造営したもので、 国の重要文化財に指定されている。

宮司職の変遷

 鹿島神宮の大宮司家は中臣鹿島氏で、天児屋根命を祖としている。富足が鹿島社祝となり、その子の武主、小主はともに中臣鹿島連を賜った。系図的には、藤原氏を出した中臣氏、多くの神官を出した大中臣氏と同族ということになるが、それは伝説的世界のことであることはいうまでもない。
 中臣鹿島姓の宮司家が定着するまでは、京都の大中臣氏のうちから選ばれて宮司が補任されていたようである。こちらは、大中臣清麻呂の子孫からその多くが選ばれていた。
 そして、鎌倉時代になると、常陸平氏大掾氏の一族鹿島氏が、鹿島神宮で頼朝から社領の寄進を受け、やがて、大宮司の大中臣氏を圧倒して、勢をもっていた大中臣家をおさえ、鹿島神宮を実質的に支配するにいたった。以後、平氏系鹿島氏は神事を司りながら、武士としても兵馬の権をもち、鹿島を中心に勢力を振るった。しかし、戦国末期にいたって、佐竹氏の手によって滅亡した。その後は、さきの中臣鹿島氏が大宮司職となり神事を司った。
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■大宮司家鹿島氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]