家紋 二荒山神社(宇都宮)

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宇都宮氏


 『日本書紀』によれば、祟神天皇四十八年「豊城命をもって東国を治めしむ。これ上毛野君・下毛野君の始祖なり」とあり、景行天皇五十五年には、豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国都督に任じたが病没しあっため、その王子御諸別王をこれに任じて派遣したとあり、「よって、その子孫今に東国にあり」と記されている。伝承とはいえ、上毛野君・下毛野君がこの地方の国造となり、のちにその族が郡司その他の地方官となったことは確かである。


その始まり

 宇都宮にある二荒山神社は、まさにこの下毛野君が奉斎した氏神で、豊城入彦命を祭神とする。一方、日光の二荒山神社があり、こちらは神護景雲元年(765)に下野の人勝道という僧が日光山を開き、男体山に神宮寺を営んだことが始まりとされ、早くから仏教色が濃いのである。勝道の事蹟も伝説に包まれており、事実かどうか分からないが、いすれにしても古くから宇都宮と日光といずれが本宮か、分からないようになった。
 フタラはもと太荒神で、神名は二荒神と書かれたが、二荒を音読して日光とし、かつ男体山を二荒山と呼んだのである。 この意味で日光の二荒山神社は、二荒山の山宮に相当する。ただ宇都宮はのちのちまで河内郡に属し、日光は都賀郡に 属して『延喜式』の神名帳には「下野国河内郡 二荒山神社」と記されている。 二荒山はこのような古社でありながら、六国史のうえでは族『続日本後紀』になって初めてみられ、承和三年(836)二荒神に正五位下の神階が授けられている。しかし延喜の制で名神大社とされ、のち下野国の一の宮とされた。
 天慶の乱(941)鎮定後、正一位勲一等に叙せられ、春秋二季の祭礼と料所が定められた。前九年の役(1062)後、源義家が生贄と兵器を奉納したという。有名な那須余一は一の谷の合戦において「八幡大菩薩・日光権現・宇都宮・那須湯前大明神」を祈って扇の的を射たと『平家物語』に見える。また、源頼朝は平家追討後、奉賽として初めて会頭を置き、下野の地頭・御家人を祭礼役とした。


宇都宮氏の支配

 神職は、古くは下毛野氏であったと思われるが、古いことは分からない。前九年の役の際、石山寺の座主であった宗円が宇都宮に下って賊徒平定を祈った功により、初めて宇都宮社務となり、所在の神主らの上に座した。その子八田権守宗綱は社務と日光山別当を兼ね、孫朝綱のとき頼朝の御家人に列して宇都宮検校と称し両職を兼帯した。
 神社の内部組織は大きく神官層・僧徒層・宮仕層に分けられていたという。まず神官層は宇都宮検校を筆頭に、宇都宮一族諸氏のうち、東上条・氏家・西方・笠間・西上条・武茂・中里等の庶子家によって構成され、定員は十二名であった。神官は恒例の神事に出仕し、順番に五か日・五か夜の社頭番を勤めたり、諸問題について一堂に会して協議することを任務とした。
 こうして宇都宮氏は宇都宮検校と日光山別当の両職を継ぎ、配下に芳賀・益子らの紀清両党を従えて、強力な武士団に成長していった。以後、下野の有力豪族として鎌倉時代から、南北朝・室町期を生き抜いた。しかし、戦国時代末期に至り、豊臣秀吉の支配体制のなかに包摂され、朝鮮の役にも出陣した。ところが慶長二年(1597)十月、突如宇都宮国綱は所領を没収され、五百有余年続いた宇都宮氏は没落した。
 江戸時代になると、朱印領千七百五十石が寄せられ、慶長十年(1605)徳川家康が社殿を造営した。なお、 寛文年中に至って、宇都宮氏の一族中里氏が新たに神主となり、子孫相続いて明治維新に及んだ。
【巴】



■検校宇都宮氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]