家紋 白山比口羊神社

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上道氏


 白山比口羊神社は遠く神代の昔、霊峰白山の神体山として、生きとし生けるものの「いのちの親神」と仰ぐ白山比口羊神社大神を奉斎したことに始まり、その創建は崇神天皇七年と伝えられる。当初の鎮座地は、現鎮座地の北方約一キロメートルの舟岡山山頂であったと言われている。その後、応神天皇二十八年(293)、手取川畔に遷られ、さらに元正天皇霊亀二年(716)東南の安久涛の森に鎮座された。
 祭神は白山比口羊(菊理媛神)、イザナギ神、イザナミ神で、北陸鎮護の大社であり、加賀国の一の宮でもある。本宮境内には、樹齢五百年らら千年を越える大杉や古欅が数多く生息しており、神々しい雰囲気を醸し出している。

白山信仰の広がり

 養老元年(717)、奥宮の開基といわれる越前の僧泰澄がはじめて霊峰白山に登拝してから後は、朝野の信仰ますます篤く、修験道場として隆盛を極め『加賀馬場」の本宮として、「白山衆徒三千を数う」と称せられた。
 白山の頂上に奥宮ふぁ奉祀されたのは養老二年である。これより先、泰澄は「まだ誰も登らぬ雪の峰白山には必ず霊神あらん、我登拝して観応を乞わん」と志していた。元正天皇霊亀二年、舟岡山妙法窟に篭って祈念を凝らすと、紫雲の中に色相荘厳の貴女を拝した。そして「我林淵に住み、和光同塵の跡を示すは、濁辱不浄の輩を済度する為である。我が本地真身を拝せんとならば、本地は白山頂上にある。流れを辿り源を尋ねて往いて拝せよ」との霊感を蒙った。時に養老元年四月一日、泰澄は三十六歳であった。
 同年六月十八日、はじめて登頂、転法輪窟において、二十一日間の祈念加持を凝らしたあと、翠ケ池のほとりで本地の真身を拝した。
 奥宮は、泰澄以後登拝の信徒が多くなり、淳和天皇の天長九年)832)に至って、加賀は白山寺、越前は平泉寺、美濃は長瀧寺の三馬場が開けた。
 その後、文明十二年(1480)の大火で四十有余の堂塔伽藍がことごとく烏有に帰したので、御神体を末社三宮の鎮座地である現在地に遷御、その後長亨二年(1488)、この三宮を本宮鎮座の地と定めて、今日に至ったものである。
 白山比口羊神社の神主は上道保命の子孫が務めたという。上道という氏は、吉備氏族の上道朝臣姓かと推測されるがその確証なない。したがって姓が、朝臣姓であるかどうかも明かではない。『白山比口羊神社叢書』所収の「白山本宮神主職次第」によれば、さきの上道保命の後裔にあたるという氏吉が、平安末期にはじめて白山神社検校職についたと記され、その子氏平は神主職を務め、以後、氏平の子孫が神職を務めたとみえる。
 系図を見ると、鎌倉期の永仁五年(1297)神主資氏が没したことが記され、その孫にあたる氏任・右寿の両人 の註に神主とあり、かれらの代で系図は途切れている。世襲神主家上道氏は鎌倉末期に断絶したのだろうか。
【三重亀甲のうち瓜花】



■神主家上道氏参考系図
   


[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]