家紋 冨士浅間神社

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伴姓古屋氏


 富士浅間神社の縁起をたどれば、富士山の大噴火を恐れる人々の心を静めるために、垂仁天皇の御代に勅令をもって 火山鎮護の神、木花開耶姫を祀ったのがはじまりとされている。その後、祭神は祭神は 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)、 大山祇命(おおやまづみのみこと)の三柱となった。なかでも彦火火出見命は、富士権現と呼ばれる。
 社殿は延暦七年(788)創建されたと伝える。東宮本殿は、鎌倉時代、北条義時が修復し、永禄四年(1561)に武田信玄が 川中島の戦勝を祈願して再建されたと伝えられるものである。武田氏の崇敬は殊に篤く、神領二百貫(千石)を 寄進している。現在の本殿は元和元年(1615)に再建、貞享五年(1688)に社殿を造修、本社殿は桃山時代の高荘な建築物として重要文化財に指定されている。老杉のうっそうと茂る社境内には、荘厳華麗な本殿と東宮、西宮本殿や、60年に一回立て替えられる朱塗りの大鳥居、根回り23mの杉のご神木などがある。
 富士浅間神社から富士山頂へと続く一本の道は、吉田口登山道として古来より多くの人々に親しまれてきた。また、登山道入口の鳥居に張られた注連縄を切るお道開きが、毎年六月三十日に行われ、そして七月一日の「お山開き」となることはよく知られている。
 富士浅間神社神楽舞は、一名岩戸神楽とも呼ばれ、現在伊勢・熱田に伝わるものを含めて三神楽といわれ、無形文化財に指定されている。毎年八月上旬には、神楽殿で梅若薪能が行われ、鬱蒼と生い茂る杉木立に笛と太鼓の音が響き、庭火が焚き上げられ、見るものを幽玄の世界へと誘ってくれる。

神職は古代豪族大伴氏の後裔

 冨士浅間神社の神主家は古代豪族の大伴金村の後裔といわれる。大伴氏は、皇室に匹敵する畿内の大豪族であった。とくに大和朝廷の成立発展期には久米部・佐伯部などの兵を率いて朝廷に仕え、物部氏とともに大連となり、古代大和朝廷の軍事力を担った。大伴氏で実在の人物と思われるのは室屋が初めであり、その孫にあたるのが金村である。
 金村は平群氏父子を討ち、武烈天皇の擁立に功を立てて大連となり、天皇の崩後越前から継体天皇を迎えた。以後、金村は欽明天皇までに仕え、大伴氏の全盛期を築いた。しかし、任那の処置を誤って物部尾輿の弾劾を受け、政界を退いた。
 浅間神主家系図によれば、金村の子磐は甲斐国山梨郡山前邑に居を遷したとみえる。以後、子孫は山梨郡に住して、少領、大領など地方官に任じている。そして八代郡大領真貞に至り、貞観七年、浅間明神を奉じ浅間祝になったとある。そして、その子恒房は浅間社領に任じ、かれの子孫は浅間社禰宜を務めるようになった。
 以後、代々浅間社に奉仕したが、中世になると兵馬のことにも携わるようになり、仲直は寺尾を称し、甲斐源氏石和信義に属した。その子和直は安貞二年鎌倉扇谷合戦で戦死している。建長二年和直の子和安は浅間明神社の祝職となり、以後、和安の子孫が祝職を世襲するようになった。
 とはいえその後も、武士としての側面を有し、南北朝期には南朝方に属して戦場に出ていることが系図から知られる。すなわち、和安の曾孫にあたる和前とその子綱守は後醍醐天皇の皇子宗良親王に近侍していた。そして、和前の孫対馬守真盛は応永十一年塩尻嶺の合戦で戦死している。
 その後の代々は浅間社祝職に専念したようで、系図で見るかぎり合戦に出たという記述はない。戦国時代の浅間社神主右京亮盛直は、甲斐国主武田信玄から古屋姓を賜り、以後、浅間神主家は古屋をもって名字とするようになった。子孫は連綿して隆真のときに明治維新を迎えている。
【桜(玄松子さんから御教示いただきました)】



■社家伴姓古屋氏参考系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]