家紋 伊勢神宮-豊受大神宮(外宮)

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度会氏


 一般に伊勢神宮というとき、そこには内宮と外宮があることは多くの人が知っている。それぞれ独立の形であはるが、両宮は一体で、総称して二所大神宮、または単に大神宮・神宮といった。必要のあるときだけ内宮・外宮といい、あるいは皇大神宮、豊受大神宮と使い分けるのである。
 内宮・外宮という呼び方は、内宮の方がより高貴な神社であるからによるが、また、内宮は神路山の麓にましまし、外宮は山田原の平地部に鎮座するという地理的位置にも由来する。外宮の宮号は豊受大神宮が正式で、略して豊受宮とも呼ばれる。
 止由気宮儀式帳によれば、雄略天皇のとき、天皇の夢に天照大神が現われ、「吾れ一所のみ坐すはいと苦し、しかのみならず大御饌も安く聞こし召さず、丹波国比治の真奈井に坐す等由気大神を、我が許に連れて参れ」とおおせられた。この教えに従って丹波からお迎えしたのが豊受大神宮であるという。
 最近の学説では、豊受大神宮こそが地付きの神で、皇大神宮は大和勢力の東方発展の拠点として進出したものとし、あるいは皇大神宮はこの地方の太陽神信仰が皇祖神と結び付いたものであるとするものもある。
 祭神はさきの儀式帳の通り等由気大神で、古事記には登由宇気神とあり、現在は豊受大御神と称している。また儀式帳に、天照大神のお言葉として「我が御饌津神」とあり、豊受大神は天照大神の食事を司る神である。日別朝夕大御饌祭が毎日二度朝と晩とに外宮で行われるのはこのためで、内宮にはこの祭はない。
 延喜大神宮式によると、「度会宮四座 豊受大神一座 相殿神三座」とあり、主祭神豊受大神のほかに三柱の神があることが知られる。ただし、三神の名は明かではない。神宮では、この三神を御伴神と称し、正殿の中央に豊受大神、左右に御伴神を配祀している。
 内宮と外宮との祭祀や参拝の順序は、外宮を先とするのがならわしで、これを古来「外宮先祭」といった。
 豊受大神宮家の禰宜家は度会氏で、天日別命を祖とし、垂仁天皇のとき、大若子が越国の賊を討ってその地を神宮に寄せた功により、伊勢国造に任じられ、大神主を兼ねて神宮に奉仕するようになったという。その弟乙若子の後の乙乃古の子から四流に分かれた。
 初め石部(磯部)氏といったらしいが、単に神主ともいい、1001年神主貞雄・連信らが度会神主の姓を賜わって、子孫が大いに栄えた。檜垣・松木・久志本・佐久目・河崎・宮後の六氏は重代家と称され、さらに横地・川田・岩淵・赤畝・蒜田・吹上・大世古・村松・曽禰・松原・堤・出口・幸若などの諸氏を分出した。
 鎌倉時代に外宮の地位を高めようと計り、宮司の大中臣氏を排し、内宮と争い、伊勢神宮を中心とする神道説を唱えた。
【花菱紋】

●皇大神宮(内宮)


■度会氏参考系図

度会氏の系図はその祖を天御中主尊に起こしているものもある。また、『古代氏族系譜集成』では、伊勢国造系に結び付けているのは「後世の仮冒」として、実際は丹波国造(丹波直)の一族であったとしている。







[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]