家紋 丹生川上神社 (上社・中社・下社)

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大丹生・丹生氏


 「吉野丹生川上に我宮柱を立て敬祀せば天下のため甘雨を降らし霖雨を止めん」との神託により、天武天皇四年(675)に創祀されたと伝えられる。かなり古くから崇敬されていたと考えられるが、社名が史料に表われるのは奈良時代からである。
 祈雨止雨に霊験あらたかな神として、山城の貴布禰(貴船)神社とともに雨師神と呼ばれ朝野の崇敬を集めた。宝亀九年(778)、従五位下に叙せられたのを初めとして、神階授与もたびたびで寛平九年(897)には従二位となった。延喜の制では名神大社、祈雨神八十五座の一とされている。また、二十二社にも列した。
 平安時代の記録によれば、丹生川上社は大和神社の別宮であったという。中世までは、貴布禰神社とともに祈雨の際には、必ずといってよいほど朝廷から奉幣が行われた。その際、祈雨であれば黒毛の馬、止雨であれば白毛の馬が副えられたという。奉幣使も、通常は神祇官人であったが、天皇側近の蔵人が遣わされることもあった。
 このように朝廷から崇敬の篤い神社ではあったが、中世半ばから朝廷の衰微にともない社運が衰え、やがて、その所在も不明となってしまう。
 その後、丹生川上社・中社・下社の三社が存在していた。明治に入って、現在の丹生川下社が古来の上社とされ、官弊大社に列せられたが、その後、現在の中社を丹生川上社とする説が唱えられ、この二社を上下二社とした。ところが、大正に入って現在の中社が本来の丹生川上社であることが明らかにされたため、大正十一年、三社を一括して丹生川上神社とすることになった。戦後、昭和二十七年、宗教法人法の施行に伴い三社はそれぞれ独立した。
 祭神は、上社の主神は高神、配神に大山祇神・大雷神。中社は主神がミズハノ女神、配神に伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大神以下六神計九神。下社が闇神をそれぞれ祭祀している。
 現在でも、祈雨の神として崇敬され、全国の県市町村の水道祭、原子力・水力発電、ダム関係の祈雨祈願祭が中社で執行される。なお、上社はダム建設にともない、旧社地は水の底に沈み、現在は移転し木の香りも新しい社殿となっている。(平成二年現在)
 丹生川上社の社家は、紀国造と同族という。すなわち初代紀伊国造天道根命から紀君豊布流と続き、豊布流の弟に神奴君小牟久がいて丹生都比売大神を祭ったことが、その始まりという。「古代氏族系譜集成」には、下記参考掲載のような系図が収録されている。
 椋垣の子の代に二流に分かれた。田迷の流れはその孫にあたる丹生麿が天智九年に大丹生直の姓となり、子孫は天野社(丹生都比売神社)の祝となった。田迷の弟稲村は丹生川上神社を奉斎し丹生祝となり、その孫の麻布良は丹生祝姓姓を負った。以後、代々丹生川上神社を奉斎したことが系図に記されている。
 ところで、丹生系図を見ると、武蔵七党の一である丹党が出ていることが知られる。丹党は従来宣化天皇の後裔丹治比(丹治)氏の後とされていたが、それは疑問とされてきた。丹生系図にみえる出自は検討される余地があるのではないだろうか。これによれば、丹党の丹は丹治からではなく、丹生の丹からきたということになるのだが、いかがであろうか。
【三つ巴(上社)】


・丹生川上中社


■社家丹生氏参考系図





[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]