家紋 上御霊/下御霊神社

アイコン
春原姓出雲路氏


 奈良時代から平安時代にかけて冤罪を蒙り怨みを残して悶死した人々の霊魂、つまり怨霊を恐れる思想が広まった。御霊神社はそれらのうち、吉備真備・崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原吉子・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷天神を八所の霊神として祀り、上社の相殿に小倉実起以下四柱、若宮に藤原利子を合祀したものである。
 平安時代初期の創建とされ、貞観五年(863)初めて神泉苑で御霊会が行われ、それがのち夏秋の交当社恒例の祭りとなり、また京都御所の産土神ともされた。
 至徳元年(1384)御霊社に正一位が授けられた。中世に一時衰微したが、明応七年(1498)御霊会を再興、近世も御霊信仰が盛んで、特に霊元天皇が篤く崇敬され、遺詔によって下社の相殿に祭られた。
 祠官は春原姓出雲路氏であった。また、下社の祠官は斎部氏であったが、こちたものちに出雲路氏を称した。
【桐(●右図:下御霊神社の神紋「沢瀉」)】




■上御霊社神職出雲路氏参考系図




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]