家紋 北野天満宮

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菅原氏松梅院/徳勝院


 北野天満宮は、戦前までは北野神社といっていた。しかし、永延元年(987)の宣命に「北野爾坐天満宮天神」とあるのをはじめ、天満大自在天神社・天満天神・北野天神・北野聖廟・北野社・北野宮寺など、いろいろに呼ばれた。祭神は菅原道真である。
 道真は、学者であり政治家であったが、政敵藤原時平の讒言によって九州の大宰府に配流され、延喜三年その地で没した。無実の罪で憂死した道真への同情が高まりつつあった折から、京都においてしばしば落雷等の異変が生じた。朝廷ではこれを道真のたたりとして恐れ、没後二十年、道真の本官を復して正二位を贈り勅して火雷天神の号を賜った。ところが、天慶五年(942)七月、右京七条坊の人多治比文子に「神殿を右近馬場に造れ、我今既に天神の号を得て鎮国の思あり、故に彼処に住まん」との神託があったとされ、朝野ますます道真の怨霊を恐れるようになった。
 そこで、道真のための小祠を設けて祭ったが崇りはやまず、天暦元年(947)六月、初めて北野に神殿を営み、天徳三年(959)二月、藤原師輔が神殿を増築して神宝を奉った。これが北野神社の起こりである。  永延元年(987)神殿を改造し、八月五日勅命によって北野祭が行われ、以後、これが例祭となった。寛弘元年(1004)には一条天皇かが北野祭を官祭とされ、行幸奉幣されて、北野行幸の先例となった。このように、北野神社は延喜式の式外社でありながら、篤く朝野の尊崇を受けるようになり、やがて二十二社の一に加えられた。また、祭神には道真の長子高視を中将殿、正室を吉祥女と称して相殿神として配祀された。
 いわゆる天神信仰というのは、もとは雷神信仰であったが、道真の怨霊がしばしば雷火の厄となったため、両者は結び付いて、天神といえば道真を指すようになり、その遺徳を偲ぶとともに、文学に親しんだ神として崇敬が加えられるに至った。
 北野社の発展は、社領の増大にも認められ、文明五年(1473)の「北野社領諸国諸々目録」によると計八十ケ所の荘園があった。その頃から近世へかけては、境内においてしきりに文人の連歌が行われ、また天正十五年(1578)十月、豊臣秀吉が同社で北野大茶湯を催している。秀吉は朱印領六百一石を寄せ、江戸幕府もこれを踏襲した。
 天神信仰の広まりとともに、古くから全国的に分祀社が生れ、現在一万余を数えるという。
 北野神社の祠官は明治初年まで僧職で、寛弘元年(1004)延暦寺の僧是算が別当職に補せられて以来師資相承し、のちに曼殊院門跡と称せられて社務を総轄した。そして、その下に菅原氏の子孫が松梅院・徳勝院・妙蔵院の三宮寺を世襲した。
 北野神社の宝物として伝藤原信実筆「北野天神縁起」が知られ、国宝に指定されている。
 天満宮の神紋は「梅」を用いているが、北野神社の場合、「松」を神紋としている(梅紋も用いている)。これは、道真の霊が九州大宰府から帰る前に(お告げによって)一夜に千本の松が生えたという伝承によるという。それゆえ、北野神社では、松を神霊の依り代としているのである。
【梅・文中に松紋を掲載】




■社家菅原氏参考系図
   




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]