家紋 日前国懸神宮

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紀国造家


 太古、天照大神が素戔鳴命の行いを嘆き、天の岩窟に隠れてしまい、世界が闇となったとき、思兼命の教えに従い種々の幣帛を備え、石凝姥命が天の香山の金を採って大神の御像を鋳造られた。
 『日本書紀』に、
 時に高産霊の息思兼命といふ者有り、思慮の智有り。乃り思ひて白して曰さく
 「彼の神の象を図し造りて招祷ぎ奉らむ」
 とまうす。故、即ち石凝姥を以て治工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり。」とあり、このとき鋳造られたのが、伊勢神宮奉祀の八咫鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、国懸神宮奉祀の日矛鏡である。
 『日前国懸両大神宮本紀大略』によると、
 神鏡者則日前大神也
 日矛者則国懸大神也
 とあり、天照大神(日神)を招祷ぎ奉るのに鏡を用いたことが窺われる。
 鎮座の次第は、天孫降臨の時、天道根命が日像・日矛の両鏡を奉斎して持ち来り、神武天皇二年名草郡毛見郷浜宮に祀り、垂仁天皇十六年名草之万代宮、すなわち現在の地に鎮座したと伝えられる。以来、天照大神の御神体として祀られる八咫鏡の御同体として、古代より朝廷の崇敬篤く、藤原定家が御幣使として神馬を奉った記録もある。
 両神は、天道根命の子孫である紀氏の手により代々奉斎され、平安時代には四十七年ごとの遷宮もされていたと伝えられる。
 日前国懸神宮に代々奉斎してきた紀氏は、神武天皇の時、天道根命が紀(紀伊)国造に任ぜられたのに始まるという。その歴史は気が遠くなるほど古い。神話の時代を含めると、なんと二千年以上もの長い歳月をくぐり抜けて、いまもなお日前国懸の神に仕えている。
 紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、大和朝廷から紀伊国造に任じられてからである。以来、紀氏は紀ノ川流域に形勢された豊穣な農耕地帯を押さえて、政治活動を繰り広げてゆく。また、紀州沿岸から瀬戸内海におよぶ海人集団(水軍)をもその配下に掴んでいた。平安時代中期の国造奉世のとき継嗣がなく、武内宿禰系紀氏の紀行義が後を継いだ。
 紀氏は国造という祖先以来の日前国懸両神宮の祭祀をこととしてきたが、国造六十四代の紀俊連のころの室町中期になると兵馬の道にたずさわり、神領の所々に城を築いて外敵に備えるようになった。太田・秋月の城が完成したのもこの頃である。紀氏は神官とはいえ、地方大名ほどの領地を有していた。
 戦国時代になると、国造職六十七代忠雄は、秋月・太田城のほかに忌部城、熊ケ碕城、弁財天城、冬野城、里江城などを構え、一族の者や神官をそれぞれの城に籠らせていた。そして、いたずらに、地方豪族同士が抗争に明け暮れている間に、時代は大きく動いていた。
(右図;紀氏の家紋「九枚笹」)
 すなわち、天正十三年(1585)三月、信長横死の跡を受けて天下統一を目指す秀吉は、その鉾先を紀州に向けてきた。これに対して、紀州側の根来・雑賀・太田(紀)の党は手を結び、二万の兵をもって秀吉の進撃を阻止しようとした。
 三月二十三日、根来寺炎上。翌、二十四日、秀吉軍は太田城攻撃を開始した。城に立て籠る者、城主太田左近をはじめとする太田党、近在の男女あわせて五千任であった。太田党の反撃は強硬で、すいに秀吉は水攻めを決意し、城のまわりに大堤防を築いて紀ノ川の水を引き込んだ。水は奔流となって流れ込んだ。そして、四月二十四日、太田城は開城した。
 頼みとする太田城を失った国造・紀忠雄は神霊を抱いて高野山の寺領、毛原の里に遁れた。勝利をつかんだ秀吉は、日前国懸両神宮の社殿をことごとく破壊し、紀氏の神領を没収した。忠雄がふたたびこの地に立ち戻ってくるのは、大納言秀長の手によって仮殿が建てられてからである。そして、忠雄は仮殿が出来てから三年後に死去した。
 日前国懸両神宮の社殿が旧社地に復旧されたのは、それから四十二年後の寛永四年。紀州藩主徳川頼宣の命によってであった。江戸時代中期になって再び継嗣を欠き、公家の飛鳥井三冬が継ぎ、以後藤原姓となって現在に及んでいる。
【束ね熨斗紋】



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■山田神主家参考系図







[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]