家紋 石清水八幡宮

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紀 氏


 石清水八幡宮は男山八幡宮とも呼ばれるように、男山の丘陵上に鎮座する。貞観元年(859)奈良大安寺の僧行教が、宇佐八幡宮に参籠して「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷より木工寮権允橘良基が宣旨を承けて六宇の宝殿を建立し、同二年、誉田別命・比口羊大神・神功皇后を奉安したのが石清水神宮の初めである。
 古来より、我朝の太祖、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟と称せられ、皇室より国民に至るまで尊崇特に篤い。なかでも皇室では、歴代天皇の崇敬が深く、行幸啓・奉幣はしばしばで、行幸は永祚元年(989)正月二十一日の円融法皇の御参詣を初めとし、明治十年、明治天皇の行幸に至るまで天皇・上皇の行幸や美幸は二百四十度にも及ぶ。
 弘安四年(1281)の蒙古襲来に際しては、神楽を行わしめ、一夜御祈祷あらせられたところ、蒙古の船が神風に吹かれて全滅したと伝わる。
 初代神主には行教の甥・紀御豊が任じ、のち俗別当に御豊の曽孫・良常が任じて、以後別当職を紀氏が独占し、良常の子聖清の時から世襲となった。29代別当慶清が田中を家号とし、32代祐清が善法寺(菊大路)を称し、二流に分かれた。以降、紆余曲折を経ながらも、田中・善法寺の二家は相次いで社務につき、現代に及んでいる。
 
●清和源氏の秘密

さて、日本の歴史のなかで、清和源氏は、武門の棟梁として世に知られている。この清和源氏が実はそうではなく陽成源氏だとする文書が石清水八幡宮に伝わっているのである。
 清和源氏は、前九年・後三年の役で知られる源頼義・義家父子をはじめ、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏など清和源氏と称される武家は枚挙にいとまがない。江戸幕府を開いた徳川家康も清和源氏を称しているのである。
 清和源氏の清和とは、清和天皇を祖とする源氏であることに他ならない。すなわち、清和天皇の皇子貞純親王の子経基王が源姓を賜って臣下に降ったことに始まるといするのが定説である。ところが、清和源氏は実は、陽成天皇の子孫が正しいとする説がある。陽成天皇は、清和天皇の皇子でさきの貞純天皇の兄にあたる人物。
 この説は明治三十三年(1900)に歴史学者星野恒氏が、『史学雑誌』に「六孫王は清和源氏に非ざるの考」という論文を発表されたことがその発端であった。六孫王とは経基のことにほかならない。
 この論文の根拠となったのが、経基の孫にあたる源頼信が、永承元年(1046)石清水八幡宮に納めた告文である。同文書は八幡宮祠官田中家に、九百年にわたって伝存されてきたものであった。以下、ポイントのみ読み下して見ると

敬んで先祖ノ本系を明め奉れば、大菩薩の聖体は、恭けなくも某の二十二世の氏祖なり。先人は新発意、その先は経基、その先は元平親王、その先は雨陽成天皇、その先は清和天皇(---中略---)いわゆる曾祖の陽成天皇は、権現ノ十八代の孫なり。頼信は彼ノ天皇の四世の孫なり。

 告文は、八幡大権現から頼信にいたる略系図を、逆に遡って記したものである。そこに書かれている内容は、概ね間違いのないものである。とすれば、「頼信は彼ノ天皇の四世の孫なり」というのも間違いではないと考えられる。
 なぜ、陽成天皇の子孫であるべきものが清和天皇の子孫を称したのか?これは、陽成天皇が「悪君の極」とか「乱国ノ王」などと呼ばれる天皇であって、その子孫と称することをはばかり、一代繰り上げて清和天皇に発する体にして清和源氏を称したと想像される。とはいえ、頼朝や義経が生れる以前に、世人は陽成源氏を「清和源氏」に誤信していたのである。いずれにしても、いまでは、清和源氏ということが定着しており、それはそれで歴史の流れというほかはない。
 われわれとしては、石清水八幡宮に清和源氏が陽成源氏であるとする「頼信の告文」が伝わっていることを知ることにとどめたい。
 ところで、「清和源氏」が、八幡信仰をもっていたことはよく知られている。頼信は石清水八幡宮にさきの告文を捧げた。おの子頼義は、相模鎌倉に元八幡を創建し、これを起点として陸奥に向かって五里ごとに、いわゆる五里八幡を創建した。荒川八幡、植田八幡、飯野八幡などが、それである。そして、その子義家は石清水八幡で元服したことから、八幡太郎と名乗った。さらに頼朝は元八幡を移建して、鶴岡八幡宮としたのである。 【三つ巴紋】





■参考略系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]