家紋 賀茂(別雷・御祖)神社

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鴨 氏


 由緒については諸説あって不詳としかいえない。別雷神社(上社)・御祖神社(下社)とに分かれる。

●賀茂別雷神社●


 『山城国風土記』逸文に、玉依日売が賀茂川の上流より流れてきた丹塗矢を床辺に置いたところ懐妊誕生した別雷神を祀るとある。そして、兄玉依比古を祖神とする鴨県主一族によって奉祀されてきた。
 文武天皇二年(697)賀茂祭の日に群衆が集まるため騎射を禁じ、あついは天平勝宝二年(750)朝廷より御戸代田一町が寄進されるなど中央に聞こえた有力社であった。下社とともに地方神から国家神へと発展した転機は平安遷都で、これにより王城鎮護の社として大同二年(807)正一位に、賀茂祭が中祀に准ぜられ内蔵使・近衛使による内廷直轄の公祭(勅祭)となった。さらに嵯峨天皇による斎院の設置は、伊勢の斎宮に準ずるもので、初代有智子内親王より三十五代礼子内親王まで続いた。華麗なる祭の様子は『源氏物語』等に描かれている。
 平安末期には、荘園・御厨が全国四十四ケ所に及んだが、戦国期には有名無実化し秀吉の太閣検地で決定的となった。その後、賀茂六郷を神領として回復し、幕末に及んだ。応仁の乱で中絶した賀茂祭も元禄七年(1694)幕府により再興され、現在に至る。



●賀茂御祖神社●


 上社と区別するため下鴨神社あるいは、鴨社・下社と通称。 上社祭神と親子関係にあり、奉斎氏族も本来同族で、賀茂祭・斎院・式年遷宮も一体で、社領・家の位階・神仏習合など時代による多少の違いはあるが、ほぼ同様である。創建は不詳である。井上光貞氏の系図分析によれば天平十八年(746)上社から分立したとされるが決定的ではない。
 天平神護元年(765)、すでに山城・丹波両国に二十戸が置かれ経済的基礎が築かれるなど、上社と並ぶ有力社であった。延喜式では名神大社で、二十二社、山城国の一の宮であった。平安後期に荘園・御厨は二十九ケ所あったが、戦国期に混乱し太閣検地で失われたことは上社と同様である。
 寛永年間(1629)の遷宮により全社殿を改め、賀茂祭再興は梨木祐之と上社の岡本清茂が協力して実現、以後、近世賀茂社の隆盛を迎えた。



 上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献に記される。神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげたというヤタガラスの伝説がある。このヤタガラスこと建角身命で、これが鴨県主の遠祖であると伝える。鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であった。
 上社のものは賀茂氏を名乗り、岡本・松下・林・座田・梅辻・鳥居・小路・森の諸家を分出した。下社のものは鴨氏を称し、泉亭・梨木・鴨脚・滋岡・下田・南大路の諸家を出している。方杖記を著わした鴨長明もこの氏人だ。
 賀茂社の神紋は、賀茂祭の別名「葵祭」でも知られるように「葵」である。そこから、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられるようになった。江戸幕府将軍家である徳川家の祖は松平氏を名乗り、賀茂神社の氏子であったという。また、近世大名本多氏も賀茂神社の神官戸関係があったと伝え、いずれも葵紋を用いている。 右図:徳川氏の三つ葉葵
【葵:上社のもの/下社は文中に表示した】


■社家鴨氏参考系図(下鴨社)




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]