家紋 粟鹿神社

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神部氏/日下部宿禰


 粟鹿神社は、彦火々出見命を祭り、但馬国にあって出石神社と並ぶ但馬国の一宮とされている。また、祭神は社伝によれば三社九神と称し、上中の三社に分かれ、上社に彦火々出見命ほか二神、中社に竜神(女体神也)ほか二神、下社に豊玉姫神ほか二神を祀るとあるが、『延喜式』神名帳は一座とし、和銅元年(708)注進の『粟鹿大名神元記』に拠れば、阿米美佐利命を祀ると明記され神名帳の一座に合致する。この注進にはさらに、神社の創建を大彦速命により垂仁天皇の御代に祀られたとある。
 一説に、祭神を四道将軍の一人丹波道王に任じられた日子坐王をもって充てるものがる。それによると、当社地を王終演の地としており、その証として本殿後方の円墳をこれにしているが、これはうがちすぎる説と考えられている。
   粟鹿神社は、但馬国の古社として既に『正倉院文書』のなかに「天平九年神戸の租調凡二千七十六束」」が充てられたことが載せられている。さらに平城天皇の大同元年(806)神封二戸が加えられ、仁明天皇承和十二年(845)七月無位粟鹿神に従五位下、清和天皇貞観十年(868)十二月、従五位上より正五位下、同十六年正五位上に上り、『延喜式』神名帳には名神大社に列せられている。
 後宇多天皇の弘安八年(1285)には神田百町七段二百二十六歩を有し、戦国時代には但馬国に蕃衍した日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に粟鹿神社を勧請している。
 社殿は建保元年(1213)粟鹿社法養院真福寺建立の記事が『会津塔八幡宮長帳』にみえ、遠く奥羽の地にまで聞こえたが、応仁の兵火にあって社殿・旧器ことごとく焼失、分明十七、八年ようやく仮殿を造営、天保十年(1839)社殿を再建したが、慶応ニ年(1866)再び焼失、明治十二年再建にかかったものが現社殿である。江戸時代、幕府より三十三石余の朱印を寄進されていた。
 粟鹿神社の社家は日下部宿禰であった。ところが、『粟鹿大明神元記』という古文書がある。これは、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が勘注上申した案文の写しで、その内容は大部分が特殊な竪系図から成っている。
 それによれば、粟鹿神主は古代素戔鳴命の後裔を称する神部氏が奉斎していたことが知られる。また、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なる。系図を信ずる限り、大三輪氏の分かれであり、賀茂朝臣とも同族ということになる。また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されている。
 以後、忍の子孫が代々祭主を務め、さきの案文を上申した神部根に続くのである。また、根の祖父にあたる都牟自は日下部系図に見える日下部氏の祖表米の子都牟自と同名であり、のちの粟鹿神社の社家が日下部宿禰であるところから、同一人物とも考えられる。
 いずれにしても、粟鹿神社の祭主は、古代に神部氏が務め、その後、日下部宿禰が務めるようになった。そして、 神部氏と日下部宿禰との接点が『粟鹿大明神元記』にある神部氏系図のなかにみえる都牟自に感じ取れるのである。
【茗荷に菊】




■社家神部氏参考系図
   




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]