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神 職(宮司を中心として)


 神社に奉仕し、その祭祀万般のことに預るものを、広く神職といっている。祭祀万般とは。神饌・幣帛を供献し、祈祷を行い、社殿に宿直して、常に清潔・修理に心がけることであり、それに付随するその他の社務もこれに含まれる。神職という語は、総括的な呼称で、一般には神官とか神主、あるいは社家・社人などと呼ばれることもある。
 ところで、個々の神職の名称となると、神社によって正式の職名が異なり、また職階による職名もいろいろあった。主なものに、宮司・神主・禰宜・祝などがあって、一種独特なものや、すべての神社に通用するものもあり、一様ではない。
 神職のなかで一般的に最も知られるのは宮司である。
 宮司は神社の祭祀とその事務とを監督する長官であるが、歴史的にみると、四つの変遷があったことがわかる。第一は、はじめ伊勢神宮に置かれたもの。第二は、伊勢をはじめ、熱田・鹿島・香取・気比・宇佐・香椎・宗像等の諸神宮・神社に置かれたもの。第三は、明治になって官国幣社制が布かれたとき、それらの神宮・神社の長官を全部宮司を称したもの。第四は、戦後になって、全国約八万の神社の長官をすべて宮司と称するようになったものである。
 第一の伊勢神宮の宮司は、皇大神宮儀式帳(804)によると、古くはコウダチノツカサ(神館の司の意)と称したが、大化五年(649)これを大神宮司と改め、中臣香積連須気をもってこれに任じたことに始まるという。神宮の宮司は祭主の下にあり、行政事務としては神宮の財政一般を処理することが主な任務であった。はじめは一員であったが、貞観十二年(870)に二員となり、元慶五年(881)からそれに大小の別、つまり大宮司・少宮司の別が生じ、さらに延喜二年(902)、権大司を大少宮司の間において三員となった。これを三員の宮司という。
 宮司の任務は一般地方官と同じく六年であり、またその職分は伊勢の神郡、特に気多・度会二郡の財政事務に限り、あたかも他の国司に準じたという。はじめは中臣氏以外からも任じたが、天長三年(826)からは中臣氏に限ることになり、さらに亨徳二年(1453)以来、中臣姓の河辺氏が世襲した。
 第二の特別大社の宮司制は、初めは大宮司一員制であったが、のちには少宮司・権宮司まで置かれることもあった。
・神事進行の要となる神職(丹波神田神社祭礼にて)

各社の宮司

 もっとも早い例は尾張の熱田神宮で、天武天皇の朱鳥元年(686)尾張国造で禰宜でもあった尾張忠命が大宮司となったものである。この例は文献的微証を欠くものではあるが、尾張氏は古くから熱田神宮に奉仕した豪族で、のち永く熱田大宮司として勢力を振るった。平安時代の後期に、大宮司員信の三男員職が大宮司職を外孫の藤原季範に譲ってから、藤原姓となった。
 宇佐神宮の宮司は、宝亀二年(771)和気清麻呂が豊前守に任じられたとき、神託によって宇佐田麿が大宮司に、同池守が少宮司となったのがはじめてで、のちに権宮司の職も生じた、香椎宮では天慶元年(938)から知られ、大宮司を膳伴氏、権大宮司を大中臣氏が世襲した。ここではまた香椎廟司・香椎廟宮司ともいっている。
 宗像神社では、天元二年(979)宗形氏能が許されて大宮司を称し、神主の上に坐した。宗像大宮司は南北朝期に北朝側へ荷担、また戦国時代には大名に匹敵するほどの勢力を有したがのちに嫡系が断絶した。
 九州では、阿蘇大宮司が知られている。阿蘇神社の祠官家阿蘇氏は、古来の阿蘇国造家の裔と伝え、延喜年中(901-23)阿蘇友成が許されて大宮司を称したのが始まりという。阿蘇大宮司家は南北朝期に著われ、家督が分裂して南朝・北朝に分かれて抗争した。戦国末期阿蘇惟光のとき、秀吉から切腹を命じられて嫡流は跡絶えたが、大宮司の職は惟光の弟が継いだ。
 南北朝期に活躍した大宮司に、越前気比神宮の大宮司がある。気比大宮司はもとは神宮司といい、中臣氏が世襲した。
 中臣姓の大宮司には、香取神宮・鹿島神宮とがあり、もとは在地の中臣氏が神職であったが、のち中央の多中臣氏を迎えて、それぞれ香取大宮司・鹿島大宮司となり、以後世襲された。この他、駿河の浅間神社の大宮司も富士大宮司と呼ばれて有名であった。
 神職の一つとして預という職がり、石清水八幡宮・春日神社・平野神社などに正預・権預があった。摂津の住吉神社や下野の二荒山神社では、神職の長官を社務といい、宗像神社・日御碕神社には検校という職もあった。厳島神社の棚守職は、宮司や神主に代わって神事を専行したものであった。
・尾張熱田神社

世襲時代の終焉

 神社に奉仕して連綿と続いた神職であったが、明治四年、神職の世襲制が禁止されて、政府がこれおを任命することに改まった。そして、官国幣社における宮司制は宮司一員を置くことが通例となった。しかし、明治神宮・熱田神宮・橿原神宮等、特別な大社にあっては、宮司・権宮司の二員制であった。これが第三の変遷である。このとき、神職を世襲してきた多くの神社関係の人々が失職したことはいうまでもない。この面でも、明治維新は革命だったことが知られる。
 第四は、昭和二十一年、官国幣社が廃止されて、各神社がいずれも同列に置かれることになったのに伴い、 全国の神社にすべて宮司制が敷かれた。もっとも、著名な神社にあっては、特に、宮司一員のほか、権宮司数員を 置きうることになり、今日に及んでいる。




[資料:日本「神社」綜覧(新人物往来社)/家系(豊田武著:東京堂出版刊)/神社(岡田米夫著:東京堂出版刊)]