諏訪神社

諏訪氏(上社)/神家(下社)


 信濃国の一宮である諏訪神社には、下社と上社がある。もと両社の神主家は系統を異にしたが、平安時代の後期以来、一族が武士化するにともない、著しく系図が混乱し、さらに源氏とも紛れて、どれが正系か判別が難しくなってしまった。
 下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。のち武力を蓄え、名字を諏訪と称し、また手塚ともいい、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。以後代々下社大祝職を継いできたが、戦国時代に断絶し、支族の今井氏が入って武居祝と称し、大祝を名乗ることはなかった。
 上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神神社の社家大三輪家と同系だろうか。平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ例となった。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団を形成、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれた。宗家は早くから諏訪氏を名乗ったであろうが、関屋・深沢・皆野・保科・笠原・千野・有賀・四宮・知久・宮所・平出などの諸氏が分出した。戦国時代に武田氏と争い、1542年大祝頼重が武田信玄に謀殺されて、大祝家は断絶した。しかい従弟頼忠が徳川家康に仕えて所領を安堵され、その子・頼水は諏訪高島郡三万石を与えられて、近世大名として明治維新を迎えた。諏訪大祝職は頼水の弟頼広が継いで、子孫明治に至った。
【梶の葉紋】

戦国大名諏訪氏の情報

■下諏訪社大祝家系図
■上諏訪社大祝家系図

[資料:家系(豊田武著:東京堂出版刊)/尊卑分脈(吉川弘文館刊)/古代豪族系図集覧(近藤敏喬:東京堂出版刊)]