佐藤氏
Satou


 名字のルーツをたどるとき「源平藤橘」という分類があり、そのなかでもっとも武家として広まったのが清和源氏、桓武平氏であり、ついで藤原氏であった。藤原氏の場合、公家の諸家が日本史を彩ったが、武家としてもおおいに広まった。武家藤原氏のうち、最も活躍したのは藤原北家藤原房前の子魚名を祖とする「藤原秀郷」の流れと「藤原利仁」の流れだ。佐藤氏は藤原秀郷六代の孫左衛門尉藤原公清から始まったというのが定説となっている。
 秀郷は下野大掾藤原村雄の長男として上野国邑楽郡に生まれ、長じて下野掾となり、押領使も兼ねた。秀郷を有名にしているのは、近江の三上山に棲む大百足を退治した伝説である。秀郷は若い頃、「俵(田原)藤太」を称して武勇に長じ、近江瀬田唐橋に住む竜神にその武勇を見込まれて、三上山に巣食う大百足を退治した。そして、米の尽きることのない俵など数々の宝物を貰い、のちの将門討伐に際しても龍神の加護を受けたといわれる。この伝説から、秀郷は山城国田原から出た、あるいは近江国田原郷から出たなどとする説もある。いずれにしろ秀郷は関東に多い開発領主系の武家であり、在庁官人としても活躍、国衙に反抗をするなどしてその武勇が知られる存在であった。
 天慶二年(939)、平将門が国衙と対立して兵を挙げたとき、将門は秀郷を仲間に誘ったという。しかし、秀郷は将門の粗忽な振る舞いを見て与さず、翌天慶三年、平貞盛らとともに将門の乱(天慶の欄)鎮圧に活躍した。その功により、武蔵・下野の国司兼鎮守府将軍に任ぜられた。以後、秀郷は唐沢山城を本拠として関東に勢力を築きあげ、子孫おおいに広まったのであった。秀郷からは佐藤をはじめとして足利・小山・結城・佐野・大友・波多野・松田・小野寺・尾藤・首藤・山内・伊賀・伊藤などなどの諸氏が分かれ出て、秀郷流とよばれる名字群が形成されたのである。
 さて、佐藤氏のはじめはといえば、秀郷六代の孫公清が左衛門尉に任じられ、その子季清、孫の康清も左衛門尉に 任ぜられたため、官名の「左」と藤原の「藤」を合わせて「左(佐)藤」と称したのだという。康清の子 佐藤左衛門尉義清は、北面の武士であったが出家して歌人「西行法師」となったことは有名な話である。
 ところが、佐藤氏のはじめについては各種系図によって一定していない。例えば『結城系図』では、公清の祖父文行のとき 佐藤を称したことがみえ、公清の甥公輔が佐藤を称している。『美作佐藤系図』でも文行が佐藤を称し、その子公光・ 脩行・公通ともに佐藤を名乗り、脩行の後裔に佐藤信夫庄司元治、その子に継信・忠信・治清らの兄弟が記され 美作佐藤氏は治清の後裔となっている。一方、文行は下野の所領諸職を弟に譲ると一族郎党を引き連れて上洛して 検非違使の職についた。そして、同じ検非違使の職にあった大神佐伯惟基の娘を嫡男公光の嫁に迎え、「佐伯藤」という 姓を名乗りだし「佐藤」に転訛したという。このように佐藤氏の起源に関しては諸説あるものの、公清のあたりで 成立したと考えてよさそうだ。
 また、佐藤氏は波多野氏流、那須氏流、さらには織田信長の子信高が佐藤四郎を称しているが、いずれも 秀郷流佐藤氏に拠ったものであろう。ちなみに、佐藤氏のはじめは藤原秀郷が下野国安蘇郡佐野を本拠にしたことから、 佐野の藤原氏から「佐藤」が起こったとする説もある。いまも佐野市には唐沢山城址があり、そこには秀郷を祀る 唐沢山神社、居館跡が伝えられている。名字の多くが地名から生じていることを思えば、納得できる説といえそうだ。
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写真:佐藤氏の菩提寺医王寺の車紋


■佐藤氏参考系図
 秀郷流の佐藤氏は、相模・伊豆・常陸・甲斐・尾張・伊勢などに土着して勢力を伸ばしたが、最も発展したのは 本拠の下野から陸奥の信夫郡に進出した奥州佐藤氏だ。この一族は奥州藤原氏に属して栄えたが、 源頼朝の奥州征討のとき佐藤元治は藤原氏に従って戦死。その子継信・忠信兄弟は、源義経の忠臣として 源平合戦に活躍、最期まで義経に従った。その後一族は、本領を安堵され、信夫庄に根づいて勢力を築いた。 南北朝の動乱を経て、奥州全域から甲斐・尾張にも移って、その周辺各地に分布していった。関東・東北地方に 佐藤氏が多いのは、このような歴史背景によっている。いまでも、佐藤姓は秋田県で一位、山形県で二位、 宮城県で三位、福島県で四位、そして岩手県で五位と東北地方に集中していることが知られる。
 一方、伊勢の佐藤氏もよく知られている。伊勢外宮の宮方を務め大神宮奉献の任務を記念して、その車の輪を家紋にしたのだという。やがて、伊勢信仰が広まるとともに、佐藤氏は神官・御師として諸国に分散し、その「車輪紋」も全国的に広まり、佐藤を姓とする家々の代表紋となった。伊勢国一志郡の榊原に住み、それを名字とした佐藤一族は榊原氏となった。徳川家康の四天王の一人に数えられる榊原康政は清和源氏を称しているが、伊勢佐藤氏の後裔が正しいといわれる。 ・2009_06/11 →2011_03/10


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