地名は、山から野に至る出入り口で、そこの分村「野の口」を指す。大和・播磨・丹波・周防・紀伊・三河・美濃・信濃・下野・常陸ほか全国にある。姓氏はそれによるが、中部地方を中心に関東から西日本にまでおよぶ。
■各地の野口氏の由来 ■清和源氏佐竹氏族 常陸国那珂郡野口村より起こる。佐竹系図に「佐竹行義の子 景義、馬淵四郎 後、野口」と載せ、また、野口小三郎などと見ゆ。又、一説に「佐竹行義の七男 貞義(塙掃部介)、奥州白川郡塙城より野口城(野口村)に移居す。後、同族 大澤義祐(野口弾正左衛門)ここに居り、子孫 在城せしが、慶長年間、佐竹氏に従い羽州に移り城廃す」と見ゆ。 ■那珂氏族 常陸国那珂郡野口村より起こる。地理志料、川辺郷條に「小野崎旧譜に、『伊勢守藤原公道の次子 通直、始めて常陸に居りて、川辺の大夫と称す』と、蓋し、ここに居るなり。その子 通資、那珂郷に移る。これを那珂氏の祖となす。又、鹿島神領目録に『於波三斗、野口五斗』と、武田慈眼寺 天文九年の仏像識に、『河東郡弘丸郷 野口大畑村』と。於波は、即ち、小場なり、那珂氏の族に野口氏あり、ここより出づ」と。 ■橘姓 常陸国多珂郡磯原村に野口氏あり、相伝えて橘氏とす。家紋 菊水なり。その他、天正十五年十二月、多賀谷氏の将、野口豊前など、谷田部城にあり、出でて小莖、高莖を略し、遂に、東輪寺城を攻むと。 ■秀郷流藤原姓小山氏族 下野国都賀郡野口村より起こる。小山系図に「藤井出羽守宗朝、藤井、大橋、野口などの祖」と。 ■武蔵の野口氏 多摩郡に野口村ありて、同郡 大久保七騎の一にこの氏存す。新編風土記に「この内 野口氏は、村民弥兵衛の祖先なり。世々 匠人にて、今もその業をなせり、家に北條氏照よりの文書二通を蔵す。また元和三年、江戸城西丸 御普請の御用を初めとして、同七年、川越御殿、寛永十三年同所、同十七年 府中御殿などの御普請の時も御用を勤めしと云う。その度々の書き物、数通を蔵せり。この他 六人の子孫も村民となりて村内に住す」と。 又、日向和田村の野口氏は、「先祖を刑部丞秀房と云い、別に松月と号せり。三田弾正少弼綱秀の家臣なり。綱秀、永禄年中、岩槻にて自害せし時、秀房かろうじて命助かり、当所に来たり、民間に土着し、ェ永年中、八十九歳にて卒せしと云う。その後の事 詳ならざれど、かの子孫たる事は疑いなし。北条家よりの文書八通所持す」とあり。又、高麗郡の野口氏は天正の頃「野口刑部亟、五十五貫文、高麗郡の内 平澤郷本郷」を宛行わる。 又、都筑郡市野沢村 長見寺の開基者に野口氏あり。又、埼玉郡実ヶ谷村の野口氏は「古え、隣村 江ヶ崎村に住し、後 当所に移りしと云う。 小田原北条氏より与えし文書一通を蔵せしが、二十年前焼失せる由、その文 村民の伝えには、武蔵国川々奉行たるべきものなりとありて、武蔵国埼玉郡江ヶ崎村 野口彦五郎殿と記し、虎の印ありしものなりと云う」と載す。又、葛飾郡の野口次郎左衛門は、海辺新田を開発す。又、入間郡川角村の俳人に野口有柳あり。 ■藤原南家工藤氏族 信濃国安曇郡に野口村あれど、これは伊那郡野口村より起こると云う。狩野家兼を祖とす。伊那武鑑に「野口氏の宅跡は手良村野口にあり。その先、小出犬房丸の末孫、世々 郷士十八貫文を領す。天正十年二月、織田信忠討ち入の時、主家と共に没落、民間に降りる」と載せ、又、諏訪のこの氏は、菊梶を家紋とす。 ■三河の野口氏 同国加茂郡に野口村あり。この地より起りしもあらん。 ■藤原姓葉室氏族 葉室宗頼の庶流なりと云う。寛政系譜に「瀬兵衛度英−辰之助直方。家紋、表結桧扇、右頭三巴、丸に打違鷹羽」と。 ![]() ●左から/隅切り角に抱き鹿角・違い抱き鹿角・変わり抱き鬼梶の葉・丸に半菊 |