増田(益田/升田)氏

地名は、升のように四角い田を表わす。それに増・益などの佳字をあてた。増田の地名は尾張・近江・上野・陸前などにあり、益田のほうは石見・近江・大和・伊勢などにみえる。姓氏はこれによるが、増田氏が断然多い。大族としては、石見国美濃郡益田村発祥の藤原北家真夏流御神本氏族がある。後裔は毛利家の永代家老職をつとめた。

■各地の増田氏の由来

■滋野姓
信濃の名族にして、増田望月系図に「望月信濃守重真−豊前守重実−越前守重俊(号 増田)−山城守重吉(号 増田)−増田太郎左衛門重清」と。

■清和源氏小笠原氏族
中興系図に「増田。清和、紋 花菱、小笠原信濃守長清の八代 掃部助宗満これを称す」と。

■藤原姓
陸奥の増田氏にして、伊達世臣譜略に「増田。姓 藤原、旧当家累世一族の臣なり。その先、名取郡増田村に住し以って称号となす。家系伝わらず、故にその出自、及び一族に列する事共に不祥。十六世 輝宗君の世、先祖将監宗繁 九歳にして元服して宗の字を賜う」とあり。

■武蔵の増田氏
幡羅上増田村に増田城あり。新編風土記に「堀形土居のみ残りて、百姓の屋敷となれり。東西九十四間、南北六十九間ほどの地なり。増田四郎重富と云う者住せり」と云い、比企郡の條に「増田氏。四郎重富、高見村に居住す。この人 事蹟詳ならざれど、男衾郡野原村 文朱寺に重富の塚あり、長享元年、二月三日卒す」と。
又、橘樹郡下作延村 圓満寺條に「開基 増田駿河守満栄(北條氏綱家臣)、永禄元年六月十六日、卒せり」と。又、「清沢村の増田氏は、松波梶平が知行の農民なり。かれは小田原北條家の家人 増田駿河守満栄の子孫なり。満栄の孫 内膳の時より当所に住せり、されど、その間の事歴を伝えず」と。
又、高麗郡條に「増田氏。柏原村の名家なり、先祖、増田正金、また大水貴先と号して、鍛冶を業とす。応永三十二年二月没す。鍛する所の槍一本その家に伝う。身の長さ一尺三寸、忠銘に柏原住人大水とほる。それよりして伝来の業を継ぐもの四世、今その名を失えり」と。

石見益田氏の情報



●左から/ませ菊・藤に一文字・長門三つ星・桝に桝掻き