松田氏

 地名は、近くに松を植えた田の意。田の神を待つにかけた。姓氏はこれを負う。  相模国足柄郡松田庄から起こった、藤原氏秀郷流波多野氏族の松田氏には大きな流れがあり、関東から中国地方にまで広がった。
 波多野氏の発祥は、相模国余綾郡波多野郷で、「保元・平治の乱」で活躍した波多野義通が、相模一円に強い勢力築いた。その孫有経が、頼朝から松田庄をあたえられ相模松田氏の祖となった。有経の子義基は、遠く伯耆に下向して伯耆松田氏の基礎を作った。その後有義の弟高義の子孫が備前に赴任し、備前松田氏は大族に成長、室町幕府の要職を占めた。この系の松田経憲は、相模に戻って後北条氏の家老杜なっている。
 他流では、伊賀の名族源三頼政の後裔、丹波の公親流藤原姓、近江の京極佐々木氏族と藤原姓秀郷流蒲生氏族、下野の清和源氏新田氏族などがある。
 代表家紋は、波多野氏流は「松田波」だ。ほかに「筋違い」「目引き籠」など珍しい紋が多い。ほかには菊、藤、沢瀉菱など。


■各地の松田氏の由来

■秀郷流藤原姓波多野氏族
相模国足柄上郡松田庄より起こる。東鑑、冶承四年十月十七日條に「波多野右馬允義常、松田郷に於いて、自殺、子息 有常云々」と見ゆ。その族裔にして、尊卑分脈に
   波多野三郎義通┬義常(経)−有経−政基−政綱┬政定
          │              └綱泰−政泰
          ├高義−成高−盛家−成家(号 松田)−宗栄
          └忠綱
見聞諸家紋に、「 直違(すじかい)」と。 ■相模の松田氏
この氏の発祥地にして、上記 成家の後は、系図に「宗栄−成栄(備後守)−頼高−直高(備後守、備前居住)−直頼−頼成−頼秀(松田左衛門尉、公方の命により本国関東に下向)−顕秀−憲秀(松田尾張守、小田原氏綱、氏康、氏政、三代の家老)−政堯」と。家紋 目引き籠。 ■平姓(藤原姓)
寛永系譜には平氏支流に収め「筑前守康定(初め備前、後 相模に移り、北條氏康に仕う)−兵衛大夫康長−市兵衛直長、家紋 二筋違」と。されど寛政重修系譜には藤原氏に収め「次郎有常の男 太郎政基の十二代孫 左衛門尉頼政の男 筑前守康定−右衛門大輔康長、二男 肥後守康郷、家紋 直違、左三巴、鶴の丸」とあり。 ■武蔵の松田氏
大石系図に松田六郎左衛門尉頼貞、浅草寺、天文六年奉加帳に松田盛秀など多く見ゆ。又、下総小金本土寺過去帳に「松田長九郎、江戸」とあり。 ■清和源氏新田氏族
新田族譜に「額田弥三郎氏綱−生田弥三郎時綱−彦五郎頼持−彦次郎政頼(松田)−松田与一政重(延文四年四月三日、矢口渡討死)」とあり。 ■上野の松田氏
上野国志に「多胡郡吉井壘跡は、街の北あり。上州既に北條氏に属し、その家長 松田尾張守康秀の村たり。天正十八年九月に至り、菅沼小大膳康助に賜う」と。又、幕末 小幡藩士 松田X興の弟 正雄は、勤王の志士たり。 ■奥州の松田氏
各地に多し。三戸郡櫛引八幡宮の神主に松田氏あり、神領千三十石なりし。 ■出羽の松田氏
関城繹史に「貞和三年四月、松田太郎も出羽立谷沢城に拠りて官軍に応じ、結城顕朝に攻略され太郎戦死」と。 ■伊豆の松田氏
古戦録に「田方郡山中城主、松田秀植(一説に重秀、康秀と記す)」あり。 ■甲信の松田氏
信濃上伊那郡新町の人、松田三就は、儒名ありて黄牛と号す。又、松田の人、松田和良は、武田氏の後裔なりと。その男 和厚は、学深く福井松平氏に仕え功多し。 ■井伊氏族
遠江の名族にして、井伊系図に「井伊左衛門尉弥直−直時−直村(松田祖)」とあり。 ■尾張の松田氏
松田豊前守定行は海西郡松田村に住み、海東郡を領すとぞ。 ■近江藤原姓
守山の人 松田「孫太郎正氏(道秀)−藤左衛門(了栄)−四郎左衛門−勝右衛門政行(前田玄以に仕え、後 家康に従いて、丹波桑田二千石を領す。)−善右衛門勝政−善右衛門勝盛」なりと。家紋 丸に三頭の波(松田波)、丸に三階松、十四葉菊。
●左から/丸に筋違い・松田波・目引き篭・四つ組み筋違い・四つ松皮菱