地名は、早く開けた村からみて上手の村を指し、上村と同じ。山城・尾張・信濃・越後・下総・常陸・岩城などの各地にみえ、姓氏はこれによる。村上氏の大族の筆頭は、清和源氏頼信流の戦国大名で、伊予の村上水軍もこの流れという。公家の流れでは「村上源氏」がある。村上天皇の後裔で、土御門・久我・千種などの堂上家、北畠・赤松などの武家が出ている。代表家紋は「上」文字だ。「上」文字を家紋にしている家は、名字が違っていても清和源氏村上氏族とみられる。
■各地の村上氏の由来 ■村上源氏 村上天皇の皇子、致平親王、為平親王、具平親王、昭平親王などの後也。 ■尾張の村上氏 室町時代の名族にして、康正造内裡段銭引付に「一貫四百三十三文、村上掃部助殿、尾張国二ヶ所段銭」と載せ、永享以来の御番帳に「一番、村上左京亮入道、村上彦三郎。五番、村上弥四郎」と、又、文安年中 御番帳に「一番、村上左京亮入道、村上掃部助。五番、村上弥四郎」とあり。又、常徳院江州動座着到に「三番衆、村上三河守頼房」とあり。又、愛知郡中根中城(村上村)の城主は、村上弥右衛門と府志に見え、同所 北城(東市場の北 大根山)の城主は、村上承膳ならん。府志に「中根城は、三、中根村にあり。村人云う、一は即ち織田越中、一は、村上弥右衛門、一は、村上承膳、各々ここに居る」と云えり。 ■幕臣藤原姓 家伝に「先祖、河合。後 宮田に改む。伝左衛門正純の男 大和守正邦(千五百五十石)、更に村上とす」とあり。家紋 丸に橘、瓜の内梅鉢、藤菱。又、正邦の弟 「縫殿助正直(千五百五十石)−同 正道、弟 大膳正恒」と。家紋 細輪の内橘、瓜の内梅鉢、藤菱。 ■遠江の村上氏 これも幕臣なり。寛政系譜に「信濃守某−信濃守某(今川氏真家臣)−文左衛門勝友(家康に属す)−文左衛門勝信、家紋 九曜、根篠」と。 ■藤原姓 安芸の名族にして、海東諸国記に「国重、甲申年、使いを遣わして来朝し、書して安芸州海賊大将藤原朝臣 村上備中守国重と称す。国書を受け、歳ごとに一船を遣わすを約す」と。又、芸藩通志に「中村石井氏。先祖 大内義隆の家人 石井刑部、弘治元年、厳島に戦死し、その子 九郎兵衛、能美島に来たりて、当村の民となる。正徳以後、累世里職たり。今 大次まで八世、家に村上氏の系図、伝書を蔵す。伝来 詳ならず」と。 ■清和源氏満快流 尊卑分脈に 「満快−甲斐守満国−甲斐守為満−信濃守為公(右馬助、伊豆掾)−為邦(信濃村上・村上源判官代)−国高(村上源太)、弟 為弘(村上宮内丞)」と。 ■清和源氏井上氏族 これも信州発祥にして、尊卑分脈に 「頼季−満実−家光−忠義−義直(村上七郎)−義基(村上太郎)」と。又、喜連川系図に「頼季(村上三郎)」とあり。 ■清和源氏頼信流 これも信州発祥にして、尊卑分脈に 頼信−(村上)頼清(陸奥守、肥後守)−筑後守仲宗(配流 讃岐国)┐ ┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └┬惟清(三河守、武蔵守行実を刃傷するによりて伊豆大島に配流) └顕清(同事によりて、信濃国配流、子孫あり。) ■幕臣義清流 寛政呈譜に 「信濃守義清(武田信玄の為に敗らる)−常陸守義利(川中島討死)−弟 弥二郎義勝(信長に仕う)−弥右衛門勝重(信長・家康に属し、千石)−彦太郎吉勝−彦太郎吉久−彦太郎善忠」と。家紋 丸に上文字、五三の桐、丸に鳩酸草。 ■備後の村上氏 毛利家宮島の戦に功ありし、水軍村上氏なり。備中府志に「院島は、周り七里、九ヶ村あり、昔は村上氏 伊予国野間郡を知行し、嫡男は、久留島、次男は 能島、三男は 因島を知行しければ、野間郡の内なり。中頃、毛利家威勢の時、備後へ近き島なる故に討ち随えて知行せしより、備後国になれり」と。又、芸藩通志に「村上義弘は因島を領地し、中庄 春影山に居たりしが、没後、今岡通任 押領せしが、義弘の孫 山城守義顕、伊予国より来たり、宮地明光、小林政常などと謀りて、今岡を討ち、城を復し、二男 次郎吉豊を入れる。その子 備中守吉資、その子 義光、毛利家 宮島の戦いに舟手に功あり」と。地名辞書に「軍記に、因島 新蔵人吉光としるせるは、これなり。弥太郎照友に至り、毛利家に従い、かの藩国へ移る」とあり。 ![]() ●左から/右上げ上の字・丸に上の字・五本鷹の羽・三つ割り片喰・八重片喰 |