菊池氏

 菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆から起こっている。この則隆の出自は、従来藤原隆家の子政則の 後裔とされていた。しかし、最近になって政則は刀伊入冦のときに太宰権出師藤原隆家を助けてともに戦った大宰府官 藤原蔵規(まさのり)のことであったことが明らかとなった。つまり、大化のころの鞠智城、あるいはこれに属する 菊池軍団によって勢力を得、菊池郡司でありながら、一族が多く大宰府の府官となった。そして、やがて藤原姓を称し、 九世紀から十一世紀の前半にかけて宗家が有力府官として活躍したとするものである。これによれば、菊池氏は 古代鞠智族の後裔で、いつのころか藤原氏との所縁をもって藤原姓を称するようになったということになる。

■菊池氏参考系図

 平安時代末期、肥後権守・隆直が平家の横暴に対し挙兵、しかし平家の大軍に攻められ屈服、一族の多くはその後の 壇の浦の合戦に平家と運命をともにした。蒙古の襲来に際しては、武房を中心に菊池一族はおおいに奮戦し名を あげている。元弘の乱のとき、武時は後醍醐天皇方に与して、鎮西深題・北条英時を博多に攻めたが、少弐・大友氏らの 離反により敗死した。その子・武光は征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎え、九州南朝方の中心として活躍し九州に おける南朝の最盛期を現出した。しかし、武政のとき、九州深題の今川貞世(了俊)に圧迫され、その子武朝はついに 本拠の菊池城を失って八代に退き、南北朝合一後菊池城に戻った。
 足利幕府に帰順したのち菊池氏は肥後国守護職を世襲したが、一族の反乱や重臣のとの軋轢が続き、衰退の色を みせていった。さらに、豊後の大友氏が肥後の阿蘇氏・相良氏らと結んで菊池氏の家督争いに介入してきたことで、 ついに武包の死によって菊池氏の血統は断絶し、一族も各地に分散してしまった。「菊地」と書く家々はこのような 人たちの子孫だという。
 ところで、宇土為光の謀叛によって肥後を逃れた能運は、妻子を弟重房に依頼して日向国米良の山中に落した。米良に 拠点をおいた幼主は成長ののち菊池姓を隠し、天姓米良と改め、米良石見守重次と称した。その後、米良の領主として 戦国時代に身を処し、近世に生き残った。子孫は表交代寄合の一家となり、代々、大名並の扱いを受け幕末に至った。 明治維新後、男爵を授けられ華族に列した。
 菊池氏からは兵藤・西郷.合志・山鹿・村田・赤星・黒木・甲斐・城・ 広瀬などの諸氏が出て、鎮西はさながらに菊地一族の天下となっている。幕末の英傑西郷隆盛の西郷氏も菊地氏の 分れという。一方、南北朝の動乱、戦国乱世のなかで菊池氏は日本各地に広がり、東北地方に移住した菊池氏の後裔は 「池」を「地」に変えて菊地を名乗ったと伝えられる。また、寛政諸家譜にみえる菊池氏は、大森氏の流れで泰次が 外祖父菊池氏の家号を称したものという。菊池氏の場合、その源流は肥後菊池氏に求められるようだ。
 菊池氏の家紋はといえば、「二枚並び鷹羽」として知られるが、もともとは「日足」紋を用いていたという。肥後の 領主である菊池氏は肥後一宮で武神としても験あらたかな阿蘇神社を信仰していた。『北肥戦記』によれば、菊池川の ほとりに住した菊池氏初代則隆が、あるとき阿蘇神社の神託を受け、神馬と阿蘇神社の神紋である鷹の羽紋を賜ったの だという。 菊池氏の鷹羽紋は、すでに『蒙古襲来絵詞』のなかに菊池次郎武房が「二枚並び鷹の羽」をかかげて 異国の敵に立ち向かっている姿が描かれている。鷹の羽は古来、武人のシンボルとされ、日本史に勇猛果敢な足跡を 刻んだ菊池氏にふさわしい家紋といえそうだ。余談ながら、菊地一族を祀る菊地神社、山鹿燈籠祭で知られる菊地氏 ゆかりの山鹿神社も神紋は「並び鷹の羽」である。

・家紋 : 阿蘇神社の神紋 - 違い鷹の羽 / 八つ日足



●同苗・戦国武将の情報にリンク
菊池氏



●左から/並び隆の羽・並び隆の羽に割り隆の羽・三つ並び隆の羽・折れ隆の羽・丸に覗き三枚隆の羽






応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ

2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
幕末志士の家紋

どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

www.harimaya.com