竹内は地名によるが、姓氏は武内と通用する。「タケウチ・タケノウチ」と読むので、竹之内にも通じる。なお竹中氏は別系統にされる。竹内氏は清和源氏新羅三郎義光流が主流で、公家の竹内氏もこの流れ。武内氏は古代の武内宿禰の後裔を称する系統が多い。家紋は「竹」と「笹」が多い。
■各地の竹内氏の由来 ■大和の竹内氏 葛下郡竹内村より起こり竹内城に拠る。郷土記に「竹内左内、竹内下総守秀勝、竹内半三郎冬雲(元亀二年七月、松永と筒井、辰市にて取り合いの刻、筒井方にて討死)」と載せ、又、萬財氏配下の将に「竹内八郎右衛門、九郎右衛門」等見ゆ。 ■堂上家 平賀盛義の後なり。武田系図に「義光の子 平賀盛義(公家竹内の祖・平賀四郎、住 信濃国)」と見え、尊卑分脈に「盛義−義信−惟義−惟信−惟時−信治」と見える信治の子 氏治を祖とす。即ち、諸家系図纂に「左近将監信治−竹内大夫氏治」とあり。又、竹内系図に「信治(左近将監)−氏治(竹内大夫)−仲治−清治−重治−豊治−基治−秀−季治(宮内少輔、永禄三年正月、大樹の御執奏により、堂上に加えらる、元亀二年九月十八日、近江国において横死、五十四歳)−長治−孝治−俊治(竹内殿)と。」又、知譜拙記に「竹内季治(季治までは代々近衛殿に候す。永禄三正、将軍の執奏により、堂上に加わる、大膳大夫、昇殿、正三)−長治−孝治−俊治−惟庸」と。その後は、「惟康−惟永−惟重−惟久−惟栄−惟徳−惟和−治則−惟忠、今出川烏丸角、明治 子爵、家紋、笹竜胆、松皮菱」と。 ■佐々木氏族 近江国蒲生郡の名族なりと。寛政系譜に「半十郎義寿−善明」と。又、寛政の頃、彦根の人に竹内勘兵衛あり、阿波国那賀郡水井村に至り、石灰の鉱脈を発見し、国富を増す。その嗣子を十郎兵衛と云う。 ■尾張の竹内氏 知多郡の名族にして、竹内茂右衛門は、水野信元の家臣なり。又、尾張志に「草木城(草木村)は、竹内弥四郎 守りし也」と。 ■三河の竹内氏 額田郡の名族にして、同郡名の内城(名の内村)は、二つあり、一は、高氏の城、一は、竹内彦大夫、山内角平の居住せしもの也と。又、大河城(大河村)は、熊谷武蔵守の家臣 竹内九藤平(日近合戦討死)の居城となるとぞ。 ![]() ●左から/陰九枚笹/丸に陰根笹/竜胆車/隅切り角に笹竜胆/変り根笹 |