大野の地名はゆるやかに広がった原野の意で、全国に約170もある。姓氏もこの地名によるものが大部分だ。古代氏族に、山城国愛宕郡大野郷の大野君があり、その後裔に「壬申の乱」で功のあった大野果安、奈良朝の鎮守府将軍・大野東人が出ている。その支流が近江から上野・武蔵に広がった。
■各地の大野氏の由来 ■桓武平氏長野氏流 長野系図に「三郎左衛門久盛−兵部少輔義富(大野稗畑城主)−同 義清−盛晴(大野四郎)と。」 ■紀姓 肥前国高来郡大野庄より起こる。深江文書、弘長元年八月一日のものに紀 有隆 見え、大野と註す。又、元享元年八月二十七日のものに紀 頼澄見え、「大野有隆の子」と註す。この氏 鎌倉時代栄しが戦国時代有馬氏に従う。 ■清和源氏宇野氏流 尾張国に大野の地名甚だ多し。この氏は知多郡大野庄より起こる。源 頼親の後にして、大和源氏に属す。尊卑分脈に「陸奥弥六惟風−弥太郎頼章−頼清(号 大野)−頼重(承久の変、京方となり誅せらる)、弟 頼時−信時−親頼−頼氏−頼高−頼長」と。 ■清和源氏志波氏流 新編武蔵風土記荏原郡大井村條に「大野氏、家の家譜とて世々蔵せり、その譜に載せし大略に云う、志波冶部大輔義将より五代の孫、志波左兵衛督義敏の三男 三河守義高の時、堀越御所政知に仕えて大野式部大輔政家と。その子 和泉守正敏に至り、堀越御所茶々丸、北條早雲の為に亡びし後、明応九年八月、両上杉に乞うて、亡君の旧を報いんとせしが、運尽きたり、戦いに負けて、ようやく武州へ帰り来たり、遂に今の地を開きて住所となし、それより子孫 相伝えて今に至ると云う」と。 ■武蔵秩父の大野氏 秩父郡大野村より起こり、大野城に住す。同郡薄村條に「この辺にて大野弾正 討死にす と云い伝うれど詳ならず。この弾正は鉢形家(寄居)の臣なれば、天正の頃の事なるべし、郡中大野村に住せしとて、その跡あり。又、一ヶ所は、中郷の内小名穴辺に出浦式部が住せしと云う地あり。今の名主 一郎左衛門の先祖なりと云う」と。 ■甲斐源姓 山梨郡大野村より起こる。源氏なりと云う。家紋 九曜。一蓮寺過去帳に「永正元年 五月十六日、大野源三」「明応二年四月二十八日、大野源三衛門の母」など見ゆ。 ■近江の大野氏 延喜式 高嶋郡に大野神社、大荒比古神社あり、大野氏の祖、大荒田別命を奉祀するにあらざるかと云う。又、甲賀郡大野村に大野宮内少輔の宅跡あり大屋敷と云う。宮内少輔は、六角氏に仕う、その子を右近大夫と称す。この大野氏は、甲賀二十一家中、山北九家の一なり。 ■清和源氏佐竹氏流 小田野本佐竹系図に「佐竹昌義−古屋宗義 四男大野云々、この六人は宗義より皆分家」と。 ■下総の大野氏 葛飾郡に大野村あり。この地より起りしもあらん。小金本土寺過去帳に「大野米地永高、文明。その他 大野讃岐。大野弥次郎。大野民部」等見ゆ。 ■桓武平氏大掾氏流 新編国志に「大野、茨城郡大野村より起こる。石川次郎家幹の八子、光幹、大野八郎と称し大野に居る。その地頭たり。後 大野経幹あり、弥次郎と称す」と。家紋、丸に大文字、五本骨開扇。 ![]() ●左から/花杏葉/杏葉/抱き花杏葉/大文字/石持地抜き洲浜 |