川・河のつく地名は全国至るところにみられる。上中下・東西南北がその上下に付いて、上川・川上、中川・川中・西川・川西などいっぱいある。川の位置関係で変化する地名に因む名字は、西川・中川・川上の順で多い。地名を負った中川氏では、美濃国安八郡中川村を発祥とする三系統が知られる。古くは藤原南家の後裔、ついで清和源氏小笠原氏の一族、そして清和源氏足利氏族斯波氏の分かれが同地の領主になりそれぞれ中川氏を名乗った。
■各地の中川氏の由来 ■中川党 大和国広瀬郡の名族にして、藤原姓と称す。大倭武士春日大宿所願主人勤番次第に「中川等(党)、箸尾、藤原姓、大宿所、隔年にこれを勤む。広瀬郡箸尾住、六万石」と。この氏は、箸尾氏を領袖とす。 ■荒木田姓 伊勢の名族にして、内宮の祠官なり。二門系図に「定俊−満俊−経長−光盛(六禰宜)−経雄(七禰宜)−経有(一禰宜、文永十七年任)−経延(二禰宜)−経盛−経世−経久(三禰宜)−経真−経徳−経永(中川長官、元亀三年二月三日卒、七十五歳)−経文」と。 ■伊勢の中川氏 内宮両宮兵乱記に「中川新三郎政方、返しあって、二ノ木戸にて討死す」と。これは上記の氏なり。又、勢州四家記に「津川勢、中川仁右衛門」を載す。又、俳聖 芭蕉の弟 慶徳図書は、山田の祠官、後 中川乙由と称すとぞ。 ■近江の中川氏 勢州四家記に「氏郷方 大将中川勝蔵」を載せ、又、京極殿給帳に「二百石 中川角介」と。又、伝え云う「東浅井郡川道村に中川氏 数家あり。総本家を仁右衛門と云い、旧幕時代には、代々庄屋を務む。出自不詳なるも 文明年間に何れよりか移住し、来れるものの如く、その時よりの系図は現存し、現今 十二代目相続す。家紋 違い鷹の羽なり」と。 ■藤原南家真作流 美濃国安八郡中川 庄より起こる。尊卑分脈に「三守(右大臣 山科大臣)−有貞(近江守)−経邦(武蔵守)−保方(伊賀守)−棟利−安隆−頼政−隆資(兵庫頭)−良朝(美濃国平野権寺主、延暦寺所司)−栄成(検校)−清兼(美濃中河住、中河進士と号す)」と。又、中興系図に「中川、藤原姓、左大臣武智麿 十四代 進士大夫清兼これを称す」と。 ■清和源氏小笠原氏族 これも美濃国中川庄より起こりしにて、小笠原貞宗の孫 小笠原政長の子 清政の後なり。貞宗は、建武の中興の際、武者所となり、その子 兵庫頭政長は、足利尊氏に従い、天龍寺供養隨兵に加われり。この流の祖 二郎清政は、政長の二男にて、長基の弟なり。尊卑分脈に「二郎、遠江守、号 中川」と註す。政長は、建武四年八月、尊氏より当庄の地頭職を賜る。よって、その子清政が中川二郎と云いし所以なり。清政に実子なかりしに身内より政康を養子せり。政康の卒後、小笠原氏は、深志(持長流)と松尾(光康流)の二流となれり。されどその後、程なく 当庄は、斯波氏の領有となり、続いて土岐氏の横領となる。これ中川が斯波流、土岐流と云われる所以なり。 ■清和源氏斯波氏族 美濃国中川庄より起こる。当庄は、前述の如く小笠原氏の所領なりしが、寛正の頃より斯波氏の所領に移る。前田家臣中川重政は、前田家所蔵斯波系譜によれば「元 斯波氏にして、足利家の重臣斯波高経の裔なり。初め織田駿河守、または越前守と称す。のち中川治郎左衛門伊治の養子となり、中川八郎左衛門と称す。信長公に仕えて、黒母衣衆となりのち、加賀藩に来る」と。 ■織田氏族 前述の如く中川重政は、斯波氏の族とあれど、一説に織田氏の族とあり。織田系図に「信定−信次−某(刑部大輔、法名宗養)−重政(駿河守、後に中川八郎右衛門と称す、信長に属し軍功あり)−武蔵守(宗半、前田利家婿)−大隅守−弥左衛門」と。 ■小笠原流尾張中川氏 寛政系譜に「刑部大輔−駿河守−八郎左衛門−半左衛門忠勝(伊勢守)−半左衛門光重−重勝−淡路守成慶−忠俊−飛騨守忠英、家紋 鳩酸草、五七桐」と。 ■清和源氏多田氏流 尊卑分脈に「小国蔵人頼行−佐兵衛尉宗頼−頼員(小中川四郎)−頼仲(小中川二郎)−頼親(右近将監)−頼藤(右将監)」とある後なりと。寛政系譜に「蔵人頼行四代の孫 中川次郎頼仲の十七代の後胤なり」と載せ、家紋 鳩酸草、牡丹の折枝とあり。而して「三九郎(寛政系譜に重政、代々尾張国に住して、斯波家に属し、また織田家に仕う)−重清(将監、家康に仕え 九百石)−重長−重龍−重興」と見ゆ。 ■清和源氏多田氏族 寛政系譜に山城守久清−久恒−久通−久忠=久慶=久貞−久徳−久持=久貴−久教−久昭−久成−久任 豊後岡 七万石 家紋 二柏 明治 伯爵 ![]() ●左から/中川柏/中川久留子/丸に並び柏/轡/丸に二つ目結 |