山内氏
三つ柏
(藤原氏秀郷流首藤氏族)


 源頼義の郎党藤原資通は首藤大夫と称し、次第に武士化した。その曽孫俊通は相模山内庄に本拠を置き、山内首藤と称した。その子経俊は一時、平家方であったがのちに源頼朝に従い、義経追討などに功をたて、伊勢・伊賀の守護職のほかに、相模の早河庄、備後の地比郡に地頭職を得た。
 地比郡には、初め庶子を派遣して支配していたが、和田義盛の乱後、北条氏の圧迫が強まり、正和五年山内通資は一族郎党を引き連れて西下し、地比郡北部の多賀村にある蔀山に城を築いて、ここに拠った。その後、山内氏は単独惣領制を打ち出し、惣領権を強化した。さらに南北朝の動乱期には、惣領通継を中心に一族十一名が連署して一揆を形成し、その勢力は近隣の泉田庄・信敷庄にも及ぶようになった。
 応仁の乱後は、備後最強の国人領主に成長し、山名氏の守護代として領国支配を助けた。十六世紀初め頃、出雲の尼子氏は最盛期を迎え、尼子経久は備後・安芸へも制服の駒を進めてきた。山内直通は初め、婚姻関係によって、尼子氏と結んだが、のち大内・毛利に接近、尼子郡が甲山城に進駐することがあった。本家山内氏を継いだ多賀山隆通は、天文二十二年、完全に毛利元就に服属し、毛利一門に次ぐ家格を与えられた。文禄五年の検地指出によると、備後北部で六千七百四十石の知行地を与えられている。
 関ヶ原の合戦後は、毛利氏に従って萩に移り、最高家格の寄組として藩政の枢機に預かった。相伝の古文書は、山内首藤家文書として「大日本古文書」に収録されている。
 山内首藤家の庶流から、土佐藩主家が出ている。こちらの家は尾張国に生まれた山内一豊が、信長・秀吉、そして家康に仕えて関ヶ原の合戦後、土佐二十万石を領している。しかし、系譜的には山内氏の後裔と称するだけで、その真実性はとぼしいとしかいえないようだ。
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 江戸時代、毛利家中の山内氏が土佐山内氏への使者となったとき、その家紋が同じということで、土佐山内氏家中と揉めるということがあった。これは歴史的にみて、土佐山内氏より毛利山内氏の方が、数段に毛並みが良いわけだが、かたや大名家かたや陪臣ということで、毛利山内氏が涙をのんだという。

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■参考略系図