飯尾氏
横木瓜
(尾張織田氏支族)
    
 織田敏定の子敏宗は尾張守護斯波氏に仕え、尾張奥田の城にいたが、その子定宗は飯尾氏の養子となり、室町幕府の相判衆に加わったという。
 定宗は永禄三年(1560)の桶狭間の戦いのとき、信長の将として鷲津砦を織田信平らと守っていたが、今川義元の臣朝比奈泰能らに攻められ、激戦の末、砦は落ち、定宗は討死した。そのとき定宗の子信宗も討死にしたというが、信宗はこのときには討死はしなかったと思われる。
 信宗は信長に仕え、永禄十年には母衣衆となっているのである。信長死後は信雄に仕え、さらに秀吉に仕えており、天正十八年には美濃国住蓮寺、近江国八幡・長原・屋須・守山・草津などの地を領し、八幡山に住したとされている。
 信宗は天正十九年に没してしまい、嫡子敏成はそれに先立つ天正十年の本能寺の変で討死していたため、結局定宗系の飯尾氏は断絶してしまったのである。
 信宗の弟に重宗がおり、こちらも飯尾氏を称していたが、織田信長に仕えていたことで、本能寺の変後出家し草庵と号した。重宗には敏隆という子があったが早世してしまったので、さきの敏成の弟左之介というのを猶子とし、永沼を名乗らせている。
 近江の多賀神社神主家に伝わる系図によると、定宗は多賀大社社司をつとめている。同じくその子信宗も社司となっている。信宗の子敏成の弟左之介は、こちらの系図をみれば左馬介宗敏とも考えられる。
 また、室町幕府の奉行人にも飯尾氏があり、戦国期に春貞・之秀・元兼などの名がみえるが、こちらは鎌倉幕府の問注所執事をつとめた三善氏の後裔で、織田系の飯尾氏とはまったく別系統のものである。

■略系図