禰寝氏
梶の葉
(建部氏)

 禰寝氏の祖は、平維盛の孫で、清盛の清と重盛の重をとって清重といい、源氏をはばかって建部氏を称したというが確証はない。大隅国禰寝院南俣は、菱刈重延が支配していたが、建仁三年、源頼家から清重に南俣院地頭職を補任された。「大隅国図田帳」に、禰寝院南俣四十町を禰寝郡司建部清重に、佐多十町は同高清知行とある。禰寝院は南俣院領と北俣院領とに分裂されたといえる。
 南北朝期に至ってこの地域には肝付氏が入ったが、建部流禰寝氏は代々、富田城を拠点としてこの地を支配した。禰寝氏は北朝方に属し、足利尊氏は南俣院郡司の一族清成に、肝付兼重が大隅国境に移動したので軍勢の待機を命じている。八代清有は北俣院・鹿屋院の地頭も兼ね、さらに弟清武から佐多西方の領地も譲られ、その子久清は、今川了俊から禰寝北俣四ケ村を与えられた。十六代重長は、天文末以来の大隅合戦に、肝付氏方として島津貴久・義久軍と連戦、また島津氏傘下の城主と直接平和工作も行い、天正元年義久に降伏した。
 このとき肝付氏に攻撃され、義久の援助を受けた。重長の子重張は島津義久・家久に属している。文禄検地で禰寝から薩摩国吉利に転封。二十四代清香の土岐、姓を小松と改めている。幕末の小松帯刀清康はこの末だ。


■参考略系図