村上氏(瀬戸内水軍)
能島家/丸に上の字
来島家/折敷に縮み三文字
因島家/丸に上の字
(清和源氏頼信流)

 村上水軍一族は清和源氏頼信流といわれている。しかし、不明な点が多く、史料も伝承や軍談・家系伝承的なものに傾きがちである。村上の名が最初に現れるのは、天慶三年から翌年にかけて、藤原純友の乱に伊予越智河野氏のもとで従軍した記録である。
 ついで現れるのは、源頼義が前九年の役ののちに、伊予守として赴任してきたときである。頼義は河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされる。この頃村上氏は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていた。その子顕清のとき部将間の私闘事件に連座して、村上一族は信濃国更級郡村上郷など各地に配流。その子定国が保元の乱後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。平治の乱後、父祖の地・ 越智大島に上陸した。この定国を村上氏の祖とする史家もある。定国から七代の孫義弘までを前期村上氏の時代とされる。
 村上義弘が応永三年(1374)に卒したあと、信濃村上氏から師清(北畠親房の孫顕成説もある)が入り、後期村上氏の祖となったとされる。師清の子義顕には三人の男子があり、それぞれ三つの島に分立させた。これが村上三家と呼ばれる基となった。すなわち長男雅房を能島に。二男吉豊を因島に。三男吉房を来島に。ここに 同門意識による結合によって後世に知られる能島村上、因島村上、来島村上の村上三家が生まれた。
 村上一族は一応、伊予の守護・河野家の家臣として出発し、前期村上義弘などは「海賊方の棟梁にして河野十八家大将の随一」といわれる常備水軍的な側面をもってはいたものの、必ずしも主家の水軍としての単純な家臣団ではなかった。
 官物輸送警固、官人の輸送警固、難路支援、曳船活動など、多岐にわたった在地活動は領主の管理を離れた自主的なものであって、米穀を中心とした領地支配に属さない全く独自な行動規範を築き上げていた。戦闘行為以外のそれらの活動は、実質的に水軍であるよりも「海賊衆」としてのものであって、芸予難海路の四ルートをおさえて、その交通支援組織として活動した時期の村上三家は河野氏の水軍という性格と、海域支配集団としての海賊衆という二面性をもっていたといえるだろう。
 結束を誇った村上三家も、戦国時代後期にはほころびが出た。信長の優勢な中国攻撃に際してつねに背後を脅かす村上水軍に対する秀吉の巧妙な勧誘工作によって、天正十年、来島村上氏が崩れた。来島城は落ち、城主通総は備中の秀吉のもとに走った。秀吉は通総を「来島」と呼んで側近とし、以後来島村上氏は来島姓を通り名とした。
 天正十六年には秀吉の海賊船禁止令が出され、因島村上氏、能島村上氏は封建領主制の波の中に翻弄され、 防長毛利藩の水軍として命脈を保つこととなった。


■参考略系図