門司氏
抱き杏葉
(中原氏後裔)


 門司氏は、源家の信任の厚かった中原親能が建久六年(1195)鎮西奉行となって以来、西国との関わりができ、それまで下総地方を掌握していた親能の孫・親房が寛元二年(1244)幕命によって豊前の地に下向し、門司半島を拠点として関門の交通権を握り、規矩郡のうちのいわゆる片野郷・柳郷・楠原郷などの門司六郷を領したことにはじまる。
 建長七年には、「飛領地」として筑前香椎院内をも併有し、豊前北部に勢力を増大していった。また、門司氏は豊後の大友氏とは同祖親族の関係にあり、その西遷や飛領などの理由も、大友氏の筑前進出を支援する意味もあったようだ。
 門司氏は最初、藤原氏または下総氏を名乗っていたが、のち本拠地門司の地名をとって門司氏をしょうするようになる。その本城は門司城であった。のちに、三角山城・足立城・寒竹城・若王子城・金山城の五城を築いた。
 南北朝期には、南朝に属した門司親頼が猿喰城を築いて、北朝方についた一族と対立して骨肉の抗争を繰り広げた。親頼は菊池氏と協力して、北豊唯一の南朝勢力として、北朝に属した同族の門司親尚やそれを援ける大内氏を相手に激闘を続けたが、一門の大和守親通の裏切りで、一族郎党七十数名全員討死した。
 門司氏の家系は複雑で、伊川・吉志・大積・楠原・柳・片野各系の一族惣庶が、鎌倉・南北朝・室町・戦国へと約四世紀を門司半島を中心に生き続けてきた。このうち大積系門司氏はのちに毛利氏の幕下となり、南方城に拠って南方氏を称した。
 門司氏は門司半島という抜群の地理的条件と、海峡通行権を有していたことで、軍事経済面では他の有力国人層よりも優位ではあったが、その居住地がつねに強雄の争奪の場となり激しい戦場と化したため、多くの戦費と有力家人を消耗した。これが門司氏をして、大名への道を絶たせる結果になったようだ。
 応仁.文明のころの門司能秀(大積系)は、大内氏の重要政務に参画していたようで、歌道の達人でもあった。連歌師の飯尾宗祇が山口を訪れたとき、能秀が接待している。また宗祇は海を渡って九州上陸第一夜を門司家親(伊川系)の居館で過ごし、門司一族と句会を開いている。
 門司氏はその後、大内・毛利と去就をかえ、支流は宇都宮・宗像・立花・宗氏などに仕え、また肥後・豊後の諸領へと散在している。

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■参考略系図