松前氏
丸に割菱
(清和源氏武田氏流)


 清和源氏若狭武田流の信広に始まるという。信広は、宝徳四年(1452)に青森の蠣崎城に寓し、のち安東政季の蝦夷島渡りに従って海を渡り、花沢館の蠣崎季繁の客となった。
 信広は、長禄元年に発生したコシャマインの乱を制圧し、その功により季繁の婿となり、蠣崎氏を継ぎ、州崎館に移った。四代季広の時には、西蝦夷の奉行といわれる地位を獲得し、蝦夷地の中の「和人地」を獲得し、実際の在地領主としての大名領国制を展開した。
 蠣崎氏がもっとも飛躍するのは、五代慶広の時で、慶広は姉妹を津軽・秋田地方の豪族のもとに入嫁させ、弟たちはそれぞれ分家させ、同族結合を基盤に蝦夷地支配に乗り出すのである。天正十八年、秀吉の天下統一には上洛して、安東氏に代わって蝦夷支配の承認を得、着々と松前藩の基礎を築いていった。秀吉没後、慶広は家康に近づき、慶長四年蠣崎氏を松前氏に改め、松前城を築いている。

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■参考略系図