松田氏
二重直違い
(秀郷流波多野氏族)
・代表紋として掲載、徳川旗本松田氏も同紋


 藤原秀郷の後裔波多野氏の一族といわれる。源義朝の重臣だった波多野義通の子義常(義経ともいう)が、足柄上郡松田郷を領して松田右馬允と名乗った。義常は治承四年の石橋山合戦で平氏方に属し、のち自刃した。その子有経は許されて鎌倉御家人となり、一時大庭景義に与えられていた義常の遺領を与えられた。以降、『吾妻鏡』には、右衛門太郎、九郎、小次郎、平三郎、弥三郎常基ら、松田姓の人物が見える。
 室町時代になると、室町幕府のもとで、二階堂・波多野氏とならんで評定衆に列し、また応永年間には政所執事代として活躍している。その後、満秀・秀興・数秀らは奉行人の筆頭の公人奉行に任じられた。応仁・文明の乱以後、数秀・長秀・清秀・晴秀らは政所寄人の筆頭である政所執事代に任じられ、飯尾氏・清氏らとともに幕府奉行人として永禄年間(1558〜1570)に至るまで活動している。
 『見聞諸家紋』には、奉行松田丹後守秀興「丸に二本松」、松田助太郎頼純「升に唐花」、松田幸松丸「二重直違い」の家紋がのこされている。
 戦国時代、室町幕臣とは別に小田原北条氏の重臣だった松田氏がある。幕府奉行松田氏と同じく秀郷流を称しているが、相模大庭氏の一族ともいう。早雲以来の譜代として重用された。
 憲秀は、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際して籠城策を氏直に献言。しかし、豊臣方の堀秀政の誘引を受け、伊豆・相模両国の知行を条件に豊臣方に内応しようとして露見、氏直に捕えられる。北条氏降伏後、秀吉の命によって切腹した。憲秀の子秀治は、父憲秀・兄政堯の豊臣方内応を阻止しようとして氏直に訴えている。小田原落城後は氏直に随従して高野山に入る。氏直没後、加賀も前田氏に仕えた。
 小田原北条氏麾下にもう一家の松田氏があった。先の憲秀の弟康定の家で、小田原落城後、直長のときに徳川家康に仕え、知行四百余石を領した。

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■参考略系図
・諸系図を併せて作成、松田氏の系譜は不明点が多い。