小寺氏
藤 巴
(村上源氏赤松氏流)


 播磨作用庄の地頭で、のちに播磨守護となる赤松氏の一族。すなわち赤松祖源季房の孫頼範の四子将則を遠祖とする。将則の曽孫頼定の次子頼季が初めて小寺氏を称した。その子藤兵衛景治は、建武四年の山城八幡の戦いで恩智某と戦って戦死しており、「太平記」にもその名が見える。
 嘉吉の変で赤松満祐が坂本城に籠城すると、小寺氏も宗徒八十八騎の一家として参集したことが「赤松盛衰記」にみえている。このとき満祐から、小寺職治が備前口の備えとして上原・薬師寺ら八百騎の大将を命ぜられている。しかし、松田・勝田氏らの謀反によって備前口の備えも崩壊、最後は城山城に拠って自殺している。
 職治の子則職は、応仁の乱で赤松政則の奉行人として活躍。政職は赤松義村に背いた浦上政宗を三石城に攻めて追い落とした。その後黒田職隆に名跡を譲った。職隆の子が有名な如水孝高である。

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■参考略系図