上総武田氏
割 菱
(清和源氏武田支族)


 房総武田氏は、康正二年、足利成氏の命により甲斐国守護武田信満の子信長が上総に入国し、真里谷・庁南の二城を築いたことに始まるという。しかし、金石文等で確認しうるのは二代信高以降である。
 文明十年には、信高・信興父子が武蔵国の方まで出兵し、争乱による討ち死者が多数出たと、太田道灌の書状にある。一族がもっとも活躍したのは文明から天文の約六十年くらいで、信興が江戸浅草の浅草寺を再建したり、上総佐貫の鶴峯八幡宮を再興したりしている。また、永正七年には禁裏御服御料所であった上総畔蒜荘を真里谷某が押領するなど、着々と勢力を拡大していった。
 五代信保は下総への進出をはかり、小弓城主原氏と対戦したが、常に形成不利で、陸奥を漂泊していた古河公方高基の弟・足利義明を迎えて大将とし、小弓城を奪った。小弓に移った義明は「小弓公方」と称し真里谷武田氏ら豪族をバックに権勢を振るった。武田氏は、真里谷・庁南の二城を拠点に、久留里・佐是・峯上・佐貫・大多喜・造海・笹子・中尾・椎津と上総一円に勢力を拡大した。
 しかし、その後信保は義明と不仲となり、天文三年に憤死した。その家督相続をめぐって長男信隆と弟・信応の間に争いが生じ、信隆は峯上・造海城を拠点に北条氏綱をたのみ、信応は真里谷城に拠り義明の支援を得た。一時は義明方が勝利をおさめたが、天文七年の国府台合戦で義明が討死すると立場は逆転。
 その後も続いた一族間の内紛で勢力は著しく衰退、ついに天正十八年、上総武田氏は滅亡した。

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■参考略系図