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遠江今川氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流)
赤 鳥


 今川氏は、足利義兼の孫である吉良長氏の次男国氏が、三河国幡豆郡今川庄に居住し、今川を名乗ったのに始まる。しかし、国氏の子基氏を経てその子範国を今川氏の初代に数えるのが一般的だという。つまり、今川庄においてわずか三ケ村を領有するにすぎなかった在地領主が、範国の代にいたり、南北朝の争乱期で、足利尊氏に属し、各地で戦功を挙げ、一躍遠江・駿河の守護にのしあがったからである。
 二代の範氏の弟貞世は足利義詮・義満の二代に仕え、遠江の守護、幕府の引付頭人から九州探題に抜擢され、応安四年から二十五年間もの長きにわたってその職にあった。その間、九州の南朝勢力掃討に貢献した。ところが大内義弘の讒にあって解任され、駿河半国の守護左遷されてしまった。のち、遠江の堀越に隠退した。
 貞世は了俊の名で知られ、冷泉為秀に和歌を学び、『難太平記』や『今川大双紙』などの著作でも知られている。また晩年には、多くの歌諭書を書き、冷泉歌学を体系づけた。この了俊にはじまる今川氏を遠江今川氏という。
 貞世の子貞臣、その子貞相と継いだが、つぎの貞延は貞相の子とするものと、貞相の子に範将がありその子とするものとがある。貞延の子が一秀と貞基である。一秀は瀬名に住んだことから瀬名氏を称し、貞基の方は堀越に居住したため堀越氏を称した。
 堀越氏は花倉の乱において、義元擁立派に属さなかったため、その後の影響力は弱く、義元の死後、今川氏真に攻められて滅亡したという。しかし、堀越氏そのものは、武蔵吉良氏との関係が濃厚であり、また、後北条氏とも血縁関係で結ばれる遠江における一代勢力であった。すなわち、貞基の正室に、北条氏綱の娘が迎えられており、その間に氏延・氏朝の兄弟が生まれ、氏朝は吉良康頼の養子となり、北条氏康の娘と結婚しているのである。
 一方、瀬名氏の方は駿河今川氏に仕え、花倉の乱のは承芳すなわち義元側として活躍している。今川家の没落後家康に仕え、五百石の旗本となった。

●駿河今川氏




■参考略系図