本間氏
十六目結
(武蔵七党横山氏流)


 一般には村上源氏とされ、源有兼が小野盛兼の子季兼を養子に迎え、その孫義忠の時、本間氏を称したという。しかし、これは相模守を務めた有兼に結び付けようとした潤色と思われる。おそらく、当初から武蔵七党のひとつ横山党に属し武蔵小野郷を本貫とした族であろう。
 能久のとき初めて佐渡守護代になったという。以後島内各地に一族が広がって、佐渡最大の武士団に成長した。嫡流は雑田本間氏という。南北朝期以降、庶家の独立化が進み、大永四年、羽茂本間氏が惣領家を攻めて以後、一族間の抗争が本格化した。この争いは越後上杉氏の仲介で収まるが、天正十七年、上杉軍が佐渡に襲来し、本間一族は敗死あるいは降伏した。
 その後、上杉軍侵攻を手引きした沢根本間氏(本間一族ではないといわれる)の子孫のみ上杉家臣として名跡の存続が許された。

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■参考略系図