陸奥畠山氏
二つ引両/村濃
(清和源氏足利氏流)


 畠山氏は清和源氏足利流。四代高国は貞和二年(1346)、奥州探題に補任され二本松に下り、北朝の拠点となった。当時、奥州は石塔.吉良・畠山・斯波の四探題制で、それまでは石塔氏が主導権をとっていた。中央での「観応の擾乱」が奥州に波及し、高国は吉良貞家と確執し、ついには両者は岩切城で激突、畠山高国・国氏父子は、吉良軍との戦いで大敗して討死をとげた。国氏の子国詮は二本松に帰り、以来、この地の豪族として数代にわたり探題職を世襲した。
 二本松城を築いたのが七大満泰である。満泰は応永〜永享年間の伊達氏や笹川公方満直の討伐などに主力となったのが畠山氏で、戦国大名としてかなりの力を保有していた。
 しかし、室町時代末期の義国の時代になると、『仙道通鑑』に「−次第に衰微し修理大夫義国の世に至り漸く安達半郡、安積半郡を知行せられ、此の節、会津の葦名盛氏武威をかがやかしかば、彼の下風にぞ属せられける」と見えるように、南奥の郵、伊達氏・葦名氏らに挟まれ。威勢は振るわなかった。
 天正十三年(1585)秋に発生した畠山義継による伊達輝宗の拉致殺害事件は有名である。事件は塩ノ松の大内定綱が伊達氏に追われ、畠山氏を頼ったことに端を発する。塩ノ松は奥州街道の要衝で、伊達・葦名・相馬氏ら強豪の勢力上の接点に当たっていた。
 この事件も大豪族にはさまれた小豪族の宿命的事件ともいえた。大内氏が二本松に身を寄せたことで、伊達氏は畠山氏征伐へと立つ。そして、大内氏が会津に亡命したのち、降伏を許された畠山義継は「御礼言上」に、伊達輝宗が居城した宮森城に来た。ここで事件は起こったのである。
 それよりさき、義継は降伏の条件に二本松のわずか五ケ村だけの保有を許されただけで、事実上、滅亡の状況下にあった。すなわち、義継にとっては起死回生の一手であったわけだ。
 政宗に追われた義継は輝宗と刺し違えて死んだ。政宗は二本松に押し寄せたが、畠山氏は近隣の"反伊達"勢力の援助もあってよく持ちこたえ、このときは政宗の攻略をしのいだ。しかし、翌十四年、ふたたび政宗に攻められた十五代義綱は、内部分裂もあり、相馬義胤の周旋で、「城主はじめ城兵は自由に退去する」という条件で二本松城を無血開城した。
 そして、義綱は会津に逃れ、畠山氏は滅亡した。その後天正十七年、義継は常陸において葦名盛重のために殺害されたという。

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■参考略系図