播磨後藤氏
下り藤
(利仁流藤原氏)


 利仁流藤原氏の公則が備後守となり後藤氏を名乗ったのが始まりという。則経・則明父子が源頼信・頼義・義家三代に仕えてより源家の譜代の臣。実基・基清二代が義朝.頼朝に仕えて鎌倉御家人となり、以降、鎌倉幕府の評定衆・引き付け衆などを歴任、室町幕臣も多く出した。
 鎌倉時代末期、後藤氏の宗家たる伊勢流の後藤基明は、父基秀の命を受けて、郎等を率いて上京した。正中の変に失敗した後醍醐天皇は、元弘元年再び討幕を企て失敗。天皇は隠岐に流され、持明院統の光巌天皇が擁立されて、これを機に元弘の乱が勃発した。護良親王・楠木正成の挙兵に続いて、播磨でも赤松円心が挙兵、元弘三年三月京都へ攻め上った。
 基明は直ちに円心幕下に馳せ参じ、力を合わせて京都の六波羅軍を攻撃した。同年五月、北条方の足利高氏が幕府に反旗を翻し、東西呼応して六波羅軍を猛攻、六波羅軍は壊滅した。こうして建武の中興が成り、円心は天皇より感状を賜った。しかしその後、恩賞を不満とした円心は、尊氏が天皇に背くや直ちに同調、基明も円心と行を共にした。
 基明はこの頃に春日山城を構え、その後十年間にわたり、春日山城主として播州を舞台に、存分の活躍をしたのである。
 円心は、尊氏が将軍になり播磨守護職を安堵されたが、他方、既に新田義貞も後醍醐天皇から播磨の大介に任命されており、これにより播州人は円心と義貞の二人を上に戴くことになった。この間基明は赤松方に属して、新田義貞の軍と戦い、九州に落ちていた尊氏の東上の成功に力を尽くした。後藤氏はこうして播州の雄赤松氏と、一蓮托生の深い絆を持つことになった。その後、基明は壮烈な討死を遂げ、景基が後を継ぎ、基治に伝えて嘉吉の乱を迎えて、後藤死は一時衰退する。
 戦国時代の播磨は、赤松氏を再興した政則が死んでから赤松氏に内紛が起き、浦上氏の下剋上が表面化するなど、国内は大いに乱れた。こういう複雑な播州で、後藤氏は所領の確保に汲々たる有様であったが、それだけに置塩城の赤松家を主家と頼んで協力しするとともに、三木の別所家へも義理立てを余儀なくされていた。
 天文五年、織田信長は秀吉に播磨征伐を委せ、秀吉は本拠を書写山において国内の諸将を招いた。しかし、三木釜山城の別所長治は応ぜず、同八年に三木城は陥ち、長治は切腹して果てた。鎌倉次第以来の播州の名門であった後藤氏であったが、最後の春日山城主基信は、別所・赤松・三木といった播磨の名門と同様、秀吉の中国征伐という時代の怒涛の中に消えていった。
 滅んだかにみえた後藤氏であったが、基信の弟基国の子基次はまだ幼かったため、これを哀れんだ黒田孝高が養育した。成人後又兵衛と名乗り、後には黒田家の家老格となった。戦功多く、武勇ひとに勝れ、文禄の役では長政に従って朝鮮に赴き、母里太兵衛・黒田三左衛門と又兵衛の三人で一日交替で長政軍の先手を勤めるほどだった。慶長五年、長政の筑前入国の後、采地一万六千石を賜っている。
 しかし、その後又兵衛は黒田家を退散、元和十四年、大坂の陣に大坂方として大阪城に籠城。翌十五年の 夏の陣において、伊達政宗の軍と戦い河内国道明寺河原で討死した。

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■参考略系図