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大宝寺氏
寄掛り目結
(藤原氏秀郷流武藤氏流)


 大宝寺氏の始祖氏平は藤原姓武藤頼平の子で、鎮西奉行資頼の弟にあたる。武藤氏平は大泉荘地頭職となったことにより大泉氏を称した。のち長盛のときに出羽に下り大宝寺に居住したので、以来、大宝寺氏とも称した。
 寛政三年(1462)大宝寺淳氏は出羽守に任じられている。その子政氏は羽黒山の別当を兼ね、大宝寺氏は羽黒山を牛耳ることによって、その権威を利用しながら勢力を拡大していったようだ。しかし、大宝寺氏の両国経営はけっして順調ではなかった。ことに永正から天文にかけ庶族砂越氏との間に一進一退の激しい功防戦が展開され、天文元年には大宝寺は亡所となり、以来、大宝寺氏は堅固な尾浦城に拠ることとなった。
 庄内はもともと越後との関係が深く、大宝寺氏も上杉謙信に臣従することを余儀なくされた。謙信は国侍らの私闘を厳禁したので、庄内の内紛もおさまった。
 大宝寺氏の最盛期は義氏の代であった。庄内はもとより最上地方をうかがい、由利郡に進出して秋田氏と対立した。しかし、その領国をかためずして外征にあけくれした結果”士民陣労”となり、ついに近臣前森蔵人の裏切りを契機に国一揆が起こり、義氏は自害した。そのあと、弟義興がたったが、内紛はやまず、ついに最上義光が大軍をもって介入してき、義興も自害して果てた。
 その後、養子義勝とその実父本庄繁長が越後より進軍し、最上・庄内軍と”十五原合戦”となり、庄内は義勝らの手に もどった。しかし、太閣検地のさいに検地一揆が起こり、義勝らは一揆扇動の嫌疑を受け、大和に流罪となり、大宝寺は 滅亡した。

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■参考略系図