英賀三木氏
角折敷に三文字
(越智氏族河野氏流)


 播磨国の二大名門とされるのが播磨守護赤松氏と英賀城主三木氏。英賀城主の初代通近は、伊予の名族、河野氏の通堯の子といわれる。しかし、通堯の子とするには年齢があわず、一族から養子になったものと思われる。河野通堯は細川頼之によって、その居城高外木城を攻められ三十二歳で戦死。通近はじめ一族は諸方に逃散してしまった。
 その後、足利義満の声がかりによって、河野宗家は亀王丸(のち通能)が継ぎ、通昌は播磨国中条・揖東郡の地頭に、通近は讃岐国三木郡の地頭にそれぞれ補された。これ以降通近は三木氏を名乗ることとなった。兄通昌の死後、通近は義満より兄の所領も与えられ、康暦二年播磨国恋ノ浜城へと入城した。
 三代通重は赤松一族の別所氏から養子に入り、赤松満祐の女を室とした。嘉吉の乱に際しては、赤松方の部将として、子通武とともに幕府軍の攻撃を防戦した。しかし、城山城において討死をとげている。
 九代通秋は、元亀元年信長の石山寺攻めに、家来をつかわして本願寺光佐上人を助けて織田軍と戦い、また飾磨港から糧米三千俵を送らせたりしている。これを機に、三木氏は否応なく織田軍と戦うこととなった。秀吉の三木城攻めには、別所長治の拠る三木城に援軍と糧米を送って別所勢に加勢している。三木城の落城後、秀吉は英賀攻めに取りかかった。城兵奮戦のかいもなく、城は落城、城主三木通秋とその子安明は城を脱して九州へと落ちのびた。

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■参考略系図