戦国大名の出自と系譜の謎


戦国大名の出現

 室町末期、すなわち戦国時代の武家社会では、前代以来の下剋上的思潮がしだいにたかまってきた結果、実力闘争による上下の新陳代謝が烈しく展開された。実力闘争といっても、この社会では、武力が看板であっただけに、変転の様相は凄まじかった。しかも、その新陳代謝が、中央社会では足利将軍家の凋落、関東地方では関東公方足利氏の凋落から始まっている。これを全国的に見れば、諸国に割拠した多くの守護大名の凋落にも求められる。以上のように伝統的な権威を誇る上位のものを実力で打ち凌ぎ、これに代わって武家社会の表面にのし上がってきたのが、いわゆる戦国大名なのである。
 これらの戦国大名が、下剋上的思潮の波に乗って全国各地に出現してきた事情については、その地域地域によってかなりの相違があった。たとえば、薩摩の島津氏、江南の六角氏、若狭の武田氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、周防の大内氏などのように、守護大名が戦国大名へと発展的解消していったもの。また、越前の朝倉氏、越後の上杉(長尾)氏、出雲の尼子氏のように守護代から戦国大名に成り上がったもの、尾張の織田氏、備前の宇喜多氏のように、守護の家老または守護代の重臣から進出したものもある。

●織田氏の場合



 また、伊勢の北畠氏、飛騨の姉小路氏、土佐の一条氏のように、国司から戦国大名へと変貌したものがあり、これを特に三国司と称していた。
 さらに、安芸の毛利氏は、吉田で三千貫を知行していた地頭にすぎないし、三河の徳川氏、江北の浅井氏、土佐の長宗我部氏のように、地方の土豪から成り上がったものも多い。大和の松永久秀、美濃の斎藤道三、相模の北条早雲は、父祖の伝統的地位や実績と関係なく、自己の知能と才覚と槍一筋で戦国大名に成り上がったのだから、戦国大名の典型的な実例といってよいだろう。
 かれら戦国大名は、身分が尊くて地位が高いくせに無力で現状維持に汲々としていた人たちを軽蔑し、これに反発し、反逆し、追い凌ぎ、打倒し、攻め滅ぼした結果に、戦国大名としての彼らの領国を造り上げ、その地域の絶対的権力者となって、政界の表面にものし上がってきた。
 かれらは、要するに、反逆の所産といってよかったのである。


戦国大名-その出自の重要性

 戦国大名は、その領国を維持し、拡張するために、軍備を整え、外交手腕をふるい。領国政治を行うためには、さまざまな政策を考案し実行した。が、同時に大名である領主の出自を粉飾し、宣伝することに心を用いた。これは、わが身のためでもあり、また、子孫のためでもあった。
 戦国大名には、さまざまな毛並みのものがいた。そのうち、国司大名や守護大名から変貌してきたものは、みな、立派な系図や系譜を所有し、祖先以来の伝統と出自の正しさを誇ることができた。その点において守護代大名も守護大名に準ずる伝統の古さがあった。しかし、それ以下の土豪出身の大名となると、毛並みがぐっと落ちてくる。さらに下剋上三人男となると、どこの馬の骨とも判明しないなどといわれている。が、そういわれれば、いわれるほど、先祖の良さを宣伝し、わが家の系譜を粉飾する必要に迫られてくるわけだ。
 戦国大名として素晴しい軍事力を持ち、権勢を誇っているだけに、系図や系譜を作りかえてまで、毛並みの良さを強調し、宣伝したのである。ここに、戦国大名における出自の重要性が存在する。
 たとえば、北条早雲などは、彼自身が先祖について語った自筆の書状によると--伊勢に在国して、関と称した--とか、伊勢平氏の関氏とも同族だった…などと説明しているのである。本来は、伊勢の土豪出身の素浪人であったが、その先祖のことを伊勢平氏の関氏の支族だったと、潤飾し、宣伝しているのだ。
 そして、駿河の守護大名今川義忠の内室となっていた妹を頼って、今河の食客となったが、義忠が土一揆と戦って討ち死し、駿河国が大いに乱れると、義忠と早雲の妹北川殿とのあいだに生まれた竜王丸を助けて、内乱を鎮定し、その功労によって、一躍、駿河の興国寺城主となった。ついで、伊豆の堀越公方足利政知が病死し、その子茶々丸が家を継いだが、家中に内訌が起こり、国内が乱れると、早雲はそれに乗じて、茶々丸を討ち、堀越御所を焼き払い、伊豆一国を手に入れ、韮山に城を築いて、これに拠った。その後早雲は、さらに関東進出を企て、箱根山で鹿狩りをすると触れて、相模の小田原城を急襲し、城主の大森藤頼を討ち、城を乗っ取った。しかも、晩年に及んで、相模三浦郡の豪族三浦義同を討って相模一国をたいらげ、小田原北条氏五代関東制覇の基を築いたのである。こうなってくると早雲の子孫である小田原北条氏は、先祖の早雲が伊勢の土豪の出身の素浪人であっただけに、その出自を潤飾する必要に迫られた。
 そうして。出来上がったのが「北条系図」なのだ。しかも、この「北条系図」にも、別本と異本があるが、いずれにしても、伊勢の土豪出身の素浪人説は否定されている。これは、当然のことといってよいだろう。五代も続いた小田原北条氏の先祖が、土豪出身の一介の素浪人では困るからだ。したがって、北条系図をもとに粉飾された北条早雲の評伝にも、京都出身説と備中出身説との二説が成立したのである。
 まず、京都出身説は、江戸時代末期の詩人。頼山陽の「日本外史」によって唱えられたもので、「伊勢系図」を典拠として、早雲の先祖を京都の公家の名族伊勢氏とし、早雲を伊勢備中守貞藤の子、新九郎長氏と断定したのだ。つぎに備中出身説は、江戸幕末の民間史家飯田忠彦の大著「野史」で唱えられた。「伊勢系図」に見える伊勢備中守盛定の子、新九郎盛時こそ早雲の前身であると説明しているのだ。早雲の生国は伊勢であるのに、頼山陽は京都とし、飯田忠彦は備中としている。しかも系図はあとで作られたものだから、あまり信用できない。古文書や日記こそ根本資料である、同時に、いわゆる人物の画像も根本資料のひとつだともいえる。
 たとえば、箱根の早雲寺所蔵の北条早雲によって窺われる早雲その人の容貌は、まさに伊勢の土豪のそれであって、京都の公家の公達の容貌ではない。それに常識で考えてみても、公家の公達に伊豆.相模の二国を切り取れるわけもないではないか。
 このように、北条早雲に例を取ってみても、戦国大名がいかにその出自を重要視していたかがわかるのである。


系図作りとその信憑性

 源平藤橘の四姓を重んじる公武社会の伝統的慣例は、とくに鎌倉時代以後の日本人の社会生活に大きな影響を及ぼしてきた。そうして、わが家の系図を重んじ、これを先祖から伝えられてきた家宝として子々孫々に伝える習慣が発生したのである。
 室町末期の戦国時代に進出してきた諸国の土豪や武士には、どこの馬の骨か判明しないものが多い。しかし、かれらが、いわゆる戦国大名になると、彼らは、わが家の系図作りに大わらわとならざるをえない。立派な系図がないと、大名としての体面が保てないからだ。この場合、その先祖を。天児屋根命を遠祖とする藤原氏か、桓武天皇を祖とする平氏か、清和天皇・村上天皇らを祖とする源氏に求めるしかなくなってくる。
 そもそも系図とか系譜というものは、先祖代々書き継いだ書き継ぎの系図・系譜という比較的確実性の強いものもあるが、大抵は、後世になって、その家の子孫が、伝統や古文書などをもとにして作りあげたものだから、その記述をそのまま信用することは甚だ危険である。
 人間というものは、元来、家系を重んずる意識が強く、自分の家柄を由緒正しく見せかけるためには、あらゆる工作を弄するものである。まして、自力でもって立身出世した人物ほど、この意識が旺盛だ。例えば、小物・足軽から成り上がって天下を取った秀吉などは、豊臣の別姓を朝廷から拝領したばかりか、彼自身を天皇の落胤と思わせるための作り話さえ宣伝させている。
 また、徳川家康なども、三河松平郷の出自なのに、姓を藤原氏などとしていたが、関ヶ原の合戦勝利後三年目に征夷大将軍に任ぜられると、上野の新田源氏得川の子孫だと宣伝すると同時に、鎌倉幕府以来、歴然とした源氏の正統である三河の大名吉良氏に依頼し、その系図を買い受け、源姓の「徳川系図」を作り上げている。

●徳川氏の場合



 さらに、江戸時代になると、系図買い、系図作りなどの商売が中流武家社会で繁盛している事実もある。

・別冊歴史読本-52号 故桑田忠親氏論文より引用





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