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輪違い紋
輪違いとは金剛界と胎蔵界を表わすといわれ、
高階氏流の高氏が家紋として用いた。

輪違い

寄り懸かり輪違い

花輪違いに唐花
 
 輪違い紋は、大和の長谷寺の寺紋として知られている。
 同寺の由来によれば、「天地は金剛界、胎蔵界の二界に分かれていて、生物は二界を右往左往して生きているという。金剛界とは智の世界で、胎蔵界とは理の世界とされ、衆生はそのいずれにも付かず離れず、泣いたり笑ったり怒ったり恨んだりしている。これを大乗遊戯相という。だが、仏はこの衆生をすべて救う。それが仏の慈悲だと。二つの輪が互いに組み合っているのは、不悟の衆生としっかり結んで、天地の調和のなかに組み込むことである」と。
 このような、輪違いの由来から家紋として用いられるようになったものと考えられる。
 輪違い紋は、南北朝期に活躍した高師直をはじめとした高一族の家紋として有名だ。『太平記』十六巻兵庫海陸寄手事の条に、「須磨ノ上野ト鹿松岡鵯越ノ方ヨリ、二引両・四目結・直違・左巴・倚カカリノ輪違ノ旗、五六百流差連テ、雲霞ノ如ク寄懸ケタリ」とある。倚カカリノ輪違がすなわち高氏の旗である。
 高氏は高階氏の後裔で、足利氏の根本被官であり、代々足利家の執事を務めた。師直は、尊氏の右腕として南朝方の北畠顕家や楠木正行らを打ち破ってその勇猛をうたわれた武将だが、吉野の行宮を焼き払ったり、天皇などの権威にいささかの敬意も払わない新人類であったようだ。
 『見聞諸家紋』をみると、高氏をはじめ出雲の塩冶、大和の萱生ほか彦部、増位、妹尾の諸氏が使用していたことが知られる。
 高氏の後裔で、戦国時代、毛利氏に属してのちに長州藩の家老となった国司氏がいた。高師泰の子師武は建武三年七月安芸国高田郡国司荘を与えられて、その地に下向し、在名をとって国司氏を称したものである。家紋は高氏伝統の「輪違い」と「七宝に反り花角」を用いた。ちなみに七宝も、輪違いの一種とされている。
 輪違い紋を用いた武家としては、脇坂氏が挙げれている。脇坂氏はもともとは桔梗の紋を用いていたようだが、賤ケ岳の七本槍で名を上げた安治のときに、はじめて「輪違い」紋を使用した。脇坂氏の輪は雌雄二匹の貂ということになっている。
 あるとき、罠にはまった貂を逃してやった。そのとき、貂のいうことには「この輪を結んで、家紋としすれば、よきこと候わん…」と。そして脇坂家の輪違い紋が生まれた。その後、出世を重ねて江戸時代は五万石の大名となった。とはいうが、後世の作り話であろう。



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