烏 紋
古代中国では太陽の化身として崇められた、
日本では熊野神社の神使であり神官鈴木一族の代表紋。
八咫烏 飛び烏 那智烏 抱き稲に烏

 烏は神話に出てくる鳥で、古代中国では太陽の中に三本足の烏が住むと考えられていた。日本神話では東征を行った神武天皇が熊野から大和に入るときに、大和の八咫烏が道案内をしたことが記され八咫烏は三本足の烏であったという。神皇産霊(カミムスビ)尊の曾孫という賀茂建角身命の化身で、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神で鴨県主の祖ともいわれている。
 三本足の意味は、熊野地方で勢力を誇った熊野三党である、「宇井」「鈴木」「榎本」の三氏を表す、熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神の「智」「仁」「勇」の三徳、いや、「天」「地」「人」を表したものなどといわれている。いずれも後世の付会であり、古代中国における三本足烏は太陽そのものの象徴としたことが伝わったものであろう。
 神武東征の縁から、三本足の烏は野権現の神使とされ、神官鈴木氏とその後裔が家の紋として用いるようになった。熊野鈴木氏は饒速日命五世の孫千翁命の子孫といい、熊野神に稲穂を捧げて穂積の姓を賜った。「穂積」とは積まれた稲穂のことで、神に一年間の収穫を感謝し、稲穂を高く積むことによって神の降臨を願ったものである。稲穂を熊野地方では「ススキ・スズキ」と呼んだところから、主に鈴木の漢字を充てられ、のちに「宇井」「鈴木」「榎本」に分流した。中世、武家の間で誓約の神文を交わすときに用いられたのは、八咫烏文字で描かれた熊野牛王神符であった。 地酒雑賀
 烏紋は鈴木氏の代表紋となり、鈴木氏が熊野権現の御使として、あるいは神官として全国に広まるとともに烏紋も広まっていった。一方、鈴木宗家は藤白神社神主家として続き、家紋は「稲穂丸」、替紋は藤白にちなんで「藤の丸」、幕紋は「熊野烏」を用いた。また名字の起こりである「ススキ=稲」から「稲紋」を用いる鈴木氏も多い。なかでも「烏」と「稲」を組み合わせた「稲に烏紋」は、鈴木氏の成り立ちを表現した出色のものである。
 鈴木氏といえば戦国時代、鉄砲軍団を率いて織田信長、豊臣秀吉を敵にまわして戦った雑賀孫市こと鈴木孫市が有名である。孫市の旗印は三本足の「八咫烏」であった。一方、伊予西園寺家の重臣として知られる土居清良も本姓は鈴木で、家紋は「烏」、旗印は「楓」を用いたことが「清良記」から知られる。このように烏紋は熊野神社の神紋として、神官鈴木氏の紋として伝来したが、烏を不吉なものとして嫌うようになったことから家紋を変えた家も多いという。烏紋は古代に発するものだけに、残念なことである。一方で日本サッカー協会のシンボルマークに八咫烏が採用されたが、これは日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助が熊野の那智勝浦出身であったことにちなんだものという。
 いまも、熊野に行けば熊野三山と総称される熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社とも三本足の烏を神紋に使っている。また、紀州の地酒「雑賀衆」にも三本足の「八咫烏」が描かれている。烏は太陽の化身であり、けっして不吉な鳥ではないのである。
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写真:紀州の地酒雑賀のシンボル-八咫烏




どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ

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