藤坂の春日神社から約1キロ、弓谷峠にかかるあたりの北山にある。明徳年間(1390〜94)に新田義貞の弟の脇屋義助の子尾張守義治が来住し、その子孫が築城したと伝えれる。義治は義貞の子義興・義宗らとともに、足利尊氏と戦ったが義興・義宗が討死にしたのちに出羽、信濃と逃れ、ついに丹波に来たのだという。古書などによれば、四代目の右近之進義貢は中馬と改めて館を構え、さらに二代後の越前守治秀が元亀元年(1570)に築城したとされる。治秀は波多野氏に属し、明智光秀の丹波侵攻が起こると、天正五年(1577)に降伏のうえ光秀に従った。そして、山崎の合戦で戦死、一族は各所に逃れ白藤城は荒廃した。山上には帯曲輪、堀切が残り、南麓には子孫の方と思われる屋敷がある。また、近くの林景山長谷寺には中馬氏の先祖である脇屋義助の位牌が祀られている。
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