県道本郷篠山線を北上、火打岩口バス停右側の山麓にかつてあったりよう厳寺跡にある。承明門院は内大臣源通親の養女で、後鳥羽天皇の後宮となり宰相の君と称された女性であった。後鳥羽天皇は久の乱を起こして大敗、隠岐島に流された。承明門院は後鳥羽院領であったこの地に身を寄せ、後鳥羽院らの安泰と怨敵北条氏の調伏祈願を祈ったという。正嘉元年(1257)、八十七才で亡くった承明門院の供養塔の上方にある岩窟は女人窟と呼ばれ、承明門院が籠った所ふだと伝えられるが真偽はさだかではない。女人窟のさらに上方には後鳥羽院の宝塔、平石山経塚などがあり、あkつての寺院の名残をとどめている。
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