歴史を訪ねて

・2008年01月20日

奥琵琶湖-菅浦

 菅浦は琵琶湖最北端の葛籠尾半島の付け根にあり、三方を山に囲まれ「陸の孤島」「隠れ里」を思わせる湖畔の集落だ。住民の祖先は、平安時代以前の、天皇に納める食料を調達する「贄人(にえびと)」と呼ばれた小集団の子孫といい、漁労と水運に従事した住民たちは供御人(くごにん)」として自立したと伝えられている。
 中世には警察や軍事など自立的に秩序を保つ、村落共同体「惣村」を組織して住民自らによる自治を行っていた。菅浦は隣村の大浦と境界紛争を起こし、実に約150年にわたり争いを続けたことが『菅浦文書』から知られる。集落の東西には、出入りの検札を行っていた「四足門」と呼ばれる二つの門が残されていて、集落の厳重な自立への姿勢を伝えている。
 一方、かつて菅浦大明神とも保良神社とも呼ばれた須賀神社は、淳仁天皇を祀ったといわれ、拝殿の裏には淳仁天皇の舟型御陵が今でも残されている。淳仁天皇は孝謙上皇と対立、ついには恵美押勝(藤原仲麻呂)の反乱を招き、淡路に配流されたと正史に記録された天皇である。歴史は敗者を語らないが、「贄人」であった住民が密かに淳仁天皇を祀ったものであろうか。
 小さな集落ではあるが、菅浦は多くの歴史ロマンを秘めた地といえそうだ。














冬枯れの湖西路をバードウォッチングを楽しみながら、葛尾崎の根元にある菅浦の地を訪ねた。恵美押勝の乱や中世の自治である惣村としても知られるところだ。まことに小さな集落で、むかしは道も通じず、文字通り陸の孤島であったという。そのような村であっても日本の歴史に足跡を刻んでいることが、まことに床しく感じられる。春夏秋冬、それぞれの風情を楽しみたいところだ。次ぎは桜咲く春に、「ふたたび行かん菅浦へ」。