龍野城の殿さん


龍野城は鶏籠山(下の写真の山)山頂の山城と現在の平山城の二期に分けられまんねん。山城が築かれたのは室町時代、十五世紀後半のことで、初代城主は赤松村秀でした。いまも山頂にゆくと瓦が落ちてたりしまんねんでー。その後、江戸時代初期、山城の三の丸の地に新城が築かれた。いまある龍野城は復興されたものです。

室町時代

 赤松氏4代 1506頃〜1577

■赤松氏の系図も用意しました。

豊臣時代

 蜂須賀 正勝(5.3万石) 1581〜1585
 福島  正則 (5万石) 1585〜1587
 木下  勝俊 (6万石) 1587〜1594
 小出  吉政 (2万石) 1594〜1595

江戸時代初期

 本多  政朝 (5万石) 1617〜1626
 小笠原 長次 (6万石) 1626〜1632
 岡部  宣勝 (5万石) 1633〜1636
 京極  高和 (6万石) 1637〜1658

とまー、めまぐるしく豊臣時代から江戸時代初期にわたって、殿さんが変わってますねー。大名というのんも本当に大変な身分やってんねー。京極氏の後に、賤ケ岳七本槍で有名な脇坂安治の子孫の脇坂氏が1672年に信州伊奈郡飯田から移封されてきまんねん。そして、この脇坂氏が十代にわたって、明治維新まで龍野を治めたんやね。この脇坂氏はもともと近江の出身で、脇坂安治の父安明は近江浅井氏に仕え、織田信長の六角氏攻めで戦死したはります。この折に15歳だった安治は当時木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉に拾われ家来となったんやて。脇坂氏といえば、貂(ten)の皮が有名やね。明智光秀の丹波攻略を秀吉が応援することになった時、安治に出陣の命令が下った。その頃丹波には、黒井城主で赤井悪右衛門直正という猛将がいた。この赤井家に伝わっていた貂の皮を、直正に勝利した安治が手に入れたんやて。この安治、関ヶ原の合戦では最初西軍側だったが土壇場で東軍に寝返った。これを冷やかして「貂の尾を輪違いに振る関ヶ原」という江戸時代の川柳があったりします。もっとも、家康とははなから話がついてたらしいでっせ。ちなみに「輪違い」は脇坂家の家紋。歴代の藩主の中には、忠臣蔵事件の折、赤穂城接収の上使となった淡路守安照や、「仙石騒動」や「延命院事件」に寺社奉行として辣腕をふるい、老中にまで出世した淡路守安薫などがいたはります。「延命院事件」とは、大奥の桃色遊戯にふけっていたが、誰もが手をつけなかった谷中の延命院に新しく寺社奉行となった安薫が手を入れ、きびしく処断した事件のこと。その後、安薫は寺社奉行を辞任したが、天保元年ふたたび寺社奉行に登用された。そのとき、「また出たと坊主びっくり貂の皮」という川柳が流布したんやて。それほど江戸時代には脇坂氏の貂の皮は有名やってんね。他にもこんな話があります。家光の治政の頃、大名諸家から家系や系図を出させた。戦国時代に槍一本で成り上がった大名諸家があれこれとりつくろった家系や系図を提出するなかで、脇坂氏は安治の父安明から稿を起こし、その冒頭に「北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」という和歌をしたためて提出したという。「脇坂の家は、藤原の流れを汲むという人もありますが、はっきりした血脈は安明、安治、安元のわずか三代、それ以前のことは、どこの馬の骨か牛の骨かわかりません」っちゅうわけやね。「えー話や!」と思いません?歴史的にも、脇坂家は安元の代で血統は絶え、信州飯田から龍野城主となった安政は堀田正盛の子で脇坂氏へ養子に入ったんやて。もっとも、江戸時代の大名家というのんは養子、養子で、先祖の血脈を伝えている家の方が少なかったようやから、まー、安治はんも気にしてはらへんと思います。

【参考資料:龍野市町並み対策室発行「龍野」/徳永真一郎著「賤ケ岳七本槍」】


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